BITTERSWEET CRISIS                             第2章−6








6 安藤坂下






「淳!」
 叫びながら弥生は三杉に駆け寄った。
「ごめんなさい、駄目だったの」
 目を伏せて、弥生はぽつりと言う。その肩を優しく叩きながら三杉は微笑を浮かべた。
「君のせいじゃないよ。無理な注文をした僕が悪かったんだ。さあ、詳しく話してくれない か」
 弥生は一つため息をついてヘルメットを抱え直すと、三杉に促されて白いBNWに歩み寄っ た。ところどころ泥のついたライダースーツを気にして弥生はちょっとためらうが、三杉は構 わず助手席に座らせるとドアを閉め、自分は反対側から乗り込んだ。
「松山くんてば…」
 少し潤んでいた目をこすりながら、弥生はくすりと笑いをもらした。
「すっかりあなたになり切っちゃって…。完璧なエスコートだったわ」
 三杉も車を発進させながら横目で弥生に笑いかける。
「彼は義理堅いからね」
「ええ、あなたよりずっと、ね」
 そりゃあひどいなあ、と応じながら、三杉は手を伸ばして道路マップを弥生に手渡した。そ こにはある一点に赤く印がつけられている。
「光が連れて行かれた先は見当がついてるんだ。でも今夜はちょっと検問が多そうだからね。 ナビゲーション頼むよ」
「そうね、無免許ドライバーさん」
 乗用車の免許が取れる年齢までまだまるまる9ヵ月を余している三杉は、しかし年季すら感 じさせる運転ぶりで都心の道路網を巧みにくぐって行く。どこでどうやってキャリアを積んだ のかは聞かずにおいたほうが無難だろう。
「向こうは3人組だったわ。中の一人がライフルを持ってて…」
「撃ってきたのかい!?」
「ええ、そうね、走っている間に3回ほどかしら。外した分については確証はないけれど」
「ケガは?」
「大丈夫よ、私も松山くんも。あ、でも、最後にベンツに向かって行った時、松山くん、ずい ぶん高い所から落ちたことになるから…」
 弥生は不安そうに言葉を切った。
 彼女を先に逃がして一人になった後、行く手をふさいだベンツに向かって松山はまっすぐに 突っ込んで行ったのだった。相手の一瞬のためらいを見逃さず、松山のハーレーはそのままボ ンネットに乗り上げ、さらにルーフの上を縦断して行ったのだ。
「あのハーレーでトライアルしたのかい? まったく…」
「あのテクニック、呆れたわ。思わず見とれるくらいにね。でも、そこへもう一台のベンツが 割り込んで来て…」
「結局そこで囚われの身か。で、そっちのナンバーは見たかい?」
「いいえ、暗くて無理だったの。私も隠れながらだったから。でも、車体の色が変だったのは 覚えてる。ダークグリーンで、変な光沢があるのよ」
「ふうん…」
 三杉はちょっと首を傾げた。
「それはまた不用意な真似をしたんだな、夜だと思って油断したかな?」
「え、何のこと…?」
「君が見たのはね、今、警視庁が躍起になって探している車だったってことさ」
 三杉は未明のニュース速報が伝えたT議員の誘拐事件の詳細を弥生に伝えた。
「まあ、それじゃ、あれが行方不明の車だったわけ?」
「間違いないね。間に合わせの塗装でカムフラージュしたんだろう。元はグレーだったそう だ。グレー系の場合はどんな色を上塗りしてもわかるんだ。くすんだ色が底に残って、それが 不自然な光沢を作るから」
「でもどうしてそんな車が私たちを? 誘拐された議員は、じゃあどうなったのかしら…」
「それを今からつき止めに行くのさ。これは決して偶然なんかじゃないはずだ。掘り下げれば 必ず何かが出て来るに決まっている」
 弥生は手元のマップに目を落とした。
「淳、そこを右折して。安藤坂下交差点」
「OK」
 ウィンカーを出してBMWはゆったりと方向を変え、橋を渡って安藤坂に入る。坂下の交差 点を過ぎるとすぐまた四辻の交差点があった。
「今度は左折。春日通りも避けたほうが無難だわ」
 このあたりはかつて山の手と呼ばれた起伏の多い地区だった。弥生が指示した道は谷と尾根 の間の斜面の中腹を横に進んでいる。江戸時代には水戸屋敷に流れ込む水路に沿って作られた ルートらしい。
「弥生、バックシートに服がある。上着だけでも掛けておいたほうがいいね。もうすぐ外も明 るくなるし」
 声を掛けながら三杉は車をビルの間の駐車スペースに入れる。その表情を見て弥生はいよい よ目的地に着いたことを知った。黙ってバックシートにあった女物のニットのジャケットを手 に取る。今ここでツナギを脱いで着替えるわけにもいかないので、ここは三杉の言葉に従って そのまま上から羽織ることにした。
「来た…」
「淳、あれよ! あのベンツ!」
 時計は5時を表示していた。それぞれ前方と後方を見ていた2人が同時に声を上げた。思わ ず顔を見合わせる。前門の虎、後門の狼の図であった。
「弥生、こっちへ!」
 いきなりシートを倒した三杉は弥生の腕を取って自分の胸に抱き寄せた。同時に着いた2台 のベンツから降りてきた男たちは、隣の駐車場のBMWの中の若い恋人たちにちらりと好奇の 目を向けたが、そのままビルの中へと入って行った。
「淳、あなたってずいぶんね!」
 緊張の数分間をやり過ごしてそっと身を起こした弥生は、三杉の腕を力任せに振りほどい た。何やら機嫌を損ねてしまったようだ。
「こういうことは『もののついで』にやらないでほしいわ」
「ごめん」
 三杉は拍子抜けするほど素直に謝った。
「でも、『ついで』だったのは、カムフラージュのほうだったかもしれないよ、弥生」
 その言葉に目を大きく見開いてしまった弥生は、やがてぷっと噴き出した。
「いいえ、やっぱり許せないわ。そのどっちだったとしてもあなたは卒なくこなしちゃえるん ですもの。腹が立つくらいにね」
 三杉は微笑んだ。
「誉めてもらって嬉しいけど、僕にだってオオカミになる権利はあると思うよ」
 言いながら三杉は弥生を再び抱き寄せた。が、弥生は笑って唇に人差し指で封印をする。
「駄目よ、その手には乗らないわ。あなたは嘘をつくのは上手だけれど、本当のことを言うの は下手だもの」
 三杉はかなり残念そうに肩をすくめた。
「仕方ないね。じゃ、僕は彼らと交渉に行って来るよ」
「えっ、淳、いきなり乗り込む気?」
「岬くんが本気で僕を殺そうと思ってるなら、もうとっくに僕は生きちゃいないよ。そうなっ てないんだから勝算はある。心配ないから」
 弥生は少し眉をひそめた。彼女には岬という人間が今ひとつわかりかねていた。1年前のア メリカでの事件まで直接関わったことさえなかったこの少年は、なまじ三杉との類似性が顔か たちだけですまないだけに、弥生にもこだわりもあるのだ。同じ四つ子でも、その点松山との 違いは大きい。
「でも…」
「君は光を保護する役目を頼むからね。ここでしばらく待っててくれないか」
 そうしてオオカミになりそこねた少年は白い建物の中に消えた。











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