BITTERSWEET CRISIS                             第3章−1






第3章
キック・アンド・ラッシュ



1 プレジデンテ





 10年ぶりの祖父との再会はいたって静かなものだった。サンターナは荷車の上から身を乗 り出して手を握り、それからゆっくりと地面に降り立った。祖父はその間ずっと無言のままだ ったが、その視線はサンターナにくぎづけになっていた。
「友人がひどいケガを負っているんだ…」
 ミゲルじいさんは荷車に横たわる翼に痛ましそうに目をやってうなづいた。それからそこに 降り立って歩み寄って来た若き革命家、現N国大統領に向かってぶっきらぼうに、しかし親し みを込めて手を差し出した。
「元気だったんだね、ミゲル」
 大統領はその手を握りながらそのまま固い抱擁を交わした。彼のかぶっていた大きな帽子が ゆらりと地面に落ちる。ミゲルじいさんは体を離すと、長身の大統領を斜めに見上げて目を細 めた。
「あんたもな、ラファエル。またこうして来てくれるとは思わんかった」
「突然連絡して悪かったよ。でも思いがけない珍客を案内して来たんだ。これで勘弁しておく れ」
 ミゲルじいさんはこの時初めて低い笑い声を上げた。片手で大統領の背を叩いておいて、再 び荷車に近寄る。
「かわいそうに…。まず傷をきれいにしてやらんと…」
 覗き込んで手を出しかけたミゲルじいさんを脇から制してサンターナが翼の体をそっと抱き 下ろした。
「わしの作業小屋が右手にある。そこのベッドに…」
 日はいくらか高くなっていた。ビセンテの村はいつもなら村人たちが活動を始めている時間 だったが、今日はひっそりと静まり返っている。が、人声に気づいたのか、反対側の家から顔 が覗いた。
「ミゲル! お着きなさったのかい?」
 銅色の髪の中年女が声をひそめて呼びかける。ミゲルじいさんは返事代わりに片手をちょっ と上げて荷車を示した。
「夜明けがた電話があったんだよ。ソルテスさんが着いたら、至急連絡ほしいって」
 女は「大統領(プレジデンテ)」という呼び方を避けるように言った。10年以上前この国は 半植民地とも言うべき独裁政権に反旗をあげて革命運動を起こし、各地でゲリラ戦を繰り広げ たわけだが、後に新政府初代大統領となるラファエル・ソルテス司令官は首都突入に失敗して 密かにこの村に落ち延びたことがあった。それが今や伝説的な革命前夜の最後の数日間となっ たのだったが、村人たちはそのことを今も誇りとし、彼らの英雄を家族のことのように語りつ いでいるのだ。
「わかった。伝えよう」
 ミゲルじいさんはいったん自宅に戻り、先に入っていたソルテス大統領と連れ立って出てき た。手には白い布の山と、小さな木箱が抱えられている。道路を隔てて建つ家を指さしておい て大統領と別れ、じいさんはトタンふきの作業小屋に消えた。
「こちらです、ソルテスさん」
「ああ、ありがとう」
 農家の土間の柱にかかる旧式の電話機を取った大統領は、教えられた番号を押した。おそら くは無人のまま放置された電話局で交換回路が自動的に接続しているのだろう。一つの奇跡の ように小さなクリック音が伝わってくる。それが呼び出し音に変わって1回鳴り終わらないう ちに相手が出た。
「おお、ご無事で…」
 声を確認した途端、安堵の叫びを発したのは閣僚の一人、ナサナエル経済相だった。
「ああ、文字通り命からがらだったが、なんとか脱出できたよ。で、そっちはどうだ?」
「どうもはかばかしくありませんな。これはあくまで未確認情報なのですが、大家のやつ、い よいよ動き始めたようです。クーデター軍への支援部隊が既に向こうを出発したとの情報があ りまして」
 まだ若い国の若い閣僚たちは大統領も含めて40代ばかりだった。この2人も、革命時を共 に闘った仲間でもあった。当時からこの国を支配下に置いて大家気取りだった米国は、彼らに とっては今なお気を許すわけにいかない存在である。中南米諸国の社会主義化を懸念する米国 にとって、すぐ裏庭のキューバの存在が喉元に突きつけられたナイフであるのと同様に、この N国の急進的な新政府は言わばこの地域全体の脱米国の動きへの起爆剤と見ているのだ。今回 のクーデターに関しても、その背後にその影がちらついているのは疑いのないところだった。
「それが事実なら厄介なことになるな。こちらも態勢を立て直す時間が欲しいところだが」
「全くです。首都のほうは現在動きがないようですが、どうも嵐の前の静けさといったところ でしょう。占拠している連中、やはり支援部隊の到着を当てにしているんじゃないでしょうか ね」
「君は今どこなんだ?」
 経済相は国境近い地方都市の名を挙げた。クーデター時に隣国訪問中で、唯一首都を離れて いて難を逃れた彼は、夜のうちに密かに国境を越えて来たのだと語った。
「国境は既に閉鎖されています。実はH国で一緒になった日本人記者が手を尽くしてくれまし てね。でなければ私もまだあっちで足止めを食ったままだったでしょう」
「日本人?」
「ええ、日本の通信社の特派記者です。なかなかフットワークの軽い男で、妙な所で顔を利か せてくれたんですよ」
「そうか。で、君はこれからどうする?」
「まもなくここを発ってカラバル空軍基地に向かうつもりです。ここからは陸路で行けますか ら。あそこにはアマデロ将軍が居座ってますし、少なくともクーデター軍への戦略的対策は立 てられるはずです」
「しかし今回のクーデターには軍部のかなりの部分が加担しているんだ、将軍が無事にまだあ そこを押さえているか、確認だけでも難しいぞ」
「それは大丈夫です」
 経済相は自信ありげに笑った。
「軍部内の情報はこちらに筒抜けですよ。将軍自身とはまだ直接接触できていませんが、連 中、カラバル空軍基地奪取に手を焼いているとのことですから、アマデロ将軍があのガンコ面 ででんと構えているのは間違いありません」
「何だって? 一体どうやって…」
「周波数変換機(スクランブラー)ですよ。例の記者が用意してて盗聴してくれてましてね」
「えっ、同行してるのか、その男」
「密入国の手引きの報酬として密着ルポを書かせてもらう、なんて言いましてねえ。危険だと 忠告はしたんですが…。今も情報収集だとか言って地元のラジオ局に出かけていますよ」
「とんでもない男だな」
「しかし妙に憎めない男でして。それに役に立つのは確かです」
「まあいいだろう。君も十分注意して出発してくれたまえ」
「わかりました。あなたも…」
 受話器を置いた大統領の脳裏にカリブの青い海の情景が突然浮かんだ。彼の愛する美しい 海、そして空。今そこに迫るのは恐るべき黒い影だった。それは彼が今追われかけている国家 元首の地位を賭けても守りきらねばならない。
 家の外に出て、大統領は向かいのミゲルの作業小屋に視線を投げた。戸が半開きになってい て、中で人影が動いているのが見える。
 あの少年の傷は深そうだった。無事に助かるだろうか。そしてそれを見守る混血のスタープ レーヤーの真摯な視線――。その中に秘められた深い悲しみの色を思い出した大統領はふと、 彼ともう一度じっくり言葉を交わしたい衝動に駆られた。











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