BITTERSWEET CRISIS                             第3章−2








2 脱出





「おやぁ、もう一人俺が現われたぞ」
 両手を頭の後ろで組んでソファーにふんぞり返っていた松山が愉快そうに言った。
「やあ。やっと追いついたよ」
「き、きさま、一体…!?」
 突然戸口に姿を見せた三杉に、室内の男たちが弾かれたように椅子から飛び上がった。
「どこから入った!」
「もちろん正面玄関からですよ」
 三杉はドアの真正面にゆったりと立ち、後ろで手を組んだまま微笑した。男たちは完全に飲 まれてしまっている。
「入口には見張りがいたはずだぞ!」
「ええ、確かにいましたよ。でも眠ってるみたいでね」
 ただし、それが自分のキックを腹に受けてのことだ、という説明は省かれている。そのこと をすぐに見抜いたのは松山だけであった。一人、深くため息をつく。
「おまえってさ、意外に暴力的なんだもんな」
「どうも職業病だと思うんだがね」
「病気は一つにしといてくれ。こっちがたまらん」
「お、おいっ、きさまらっ!」
 状況を全く無視して進められる日常生活そのままの会話に一瞬タイミングを外された男たち は、はっと我に返るとあたふたと三杉を取り囲んだ。あわててすごんでみせても、いったん乱 されたペースはそう簡単に元に戻るものではない。三杉は素知らぬ顔でその囲みを出ると、つ かつかとソファーに歩み寄り、足を止めてそのまま松山を見下ろした。
「元気そうだね」
「まあな」
「ケガはないのかい」
「俺はねえけどよ、おまえのCBR、ペシャっちまった。悪りぃな」
 三杉は小さくため息をついてみせた。
「僕はいいけどね。登録が僕の名前なだけでどうせ君の専用車なんだ。それより、目撃者の証 言によると頑丈で有名なドイツ製高級車を2台ばかり破壊してしまったそうだが」
「あれは不可抗力ってやつさ。俺が通ろうとした所にたまたま居合わせたのが気の毒だったけ どな。さすが、あのハーレーは最高だったぜ。頼んで一緒にここまで運んでもらったから青葉 に返してやってくれ」
「光…」
 三杉の表情がその時突然歪んだかと思うと、次の瞬間、崩れるようにして松山にしがみつい ていた。ソファーの上で力いっぱい抱きしめられて、松山は肩越しに目を白黒させている。
「もう二度とこんな真似はしないって約束してくれ! 僕を、僕を殺す気かい!?」
「お、おい…」
 泡を食った松山がようやく声を出そうとした時、同時に三杉はぱっと顔を上げた。そしてじ っと目と目を合わせる。
「君の一番危なっかしい所はね、自分がどれほど危なっかしいかにちっとも気づいていないっ てことだよ。そして僕は君でありえない自分が永遠に許せないんだ」
「――淳?」
「さあさあ、感動のご対面が済んだらさっそくこちらの用件に入ってもらいましょう、三杉淳 くんに松山光くん」
 ドアの所から新しい声が響いた。見つめ合っていた2人はさっとそちらを振り向く。部屋に いた男たちとは違ってスーツをきちんと着こなした中年の紳士が彼らを見て微笑した。が、そ の表情に疲労の色が浮かんでいるのを三杉は見過ごさなかった。
「残念なことに時間があまりないのでね。急いでもらわないと」
「どんなご用件でしょうか」
 三杉はゆっくりと立ち上がった。松山も真顔に戻ってソファーに座り直す。
「君が来てくれて助かったよ。どうもそちらのお兄さんは強情で困っていたところだったん だ」
「口が固いって言ってほしいもんだな、おっさん」
 おっさん呼ばわりされて男が思わずたじろぐ。
「それにこいつのほうが俺よりくみしやすいなんて思ったら大間違いだからな。俺が保証して やる」
「おいおい、駄目じゃないか。せっかく歓迎してくださってるのに、最初からそういうイメー ジを植えつけちゃ」
「俺はこれでもこのおっさんに同情してるんだぞ。いいか、俺たちは2人の三杉淳でも2人の 松山光でもなくって、『三杉淳と松山光』なんだぜ!」
 どーだ、すごいだろう、とばかりに松山は胸を張ってみせる。三杉は再び苦笑した。そう、 その組み合わせの凶悪さはこの自分が一番よく知っている。そしてその凶悪さを誰より愛して いるのもこの自分なのだ。
「で? 何でしたっけ」
 さすがに気の毒になって三杉が水を向ける。男は疲労がまた増したと見えて、顎で力なく奥 のドアを指した。
「いいから来なさい。もう首実検している暇はない。君たちのどちらが本物の三杉淳でも構わ んからとにかく呪文を早く解いてもらうだけだ」
「…呪文?」
 男は隣室に2人を招きいれながら自嘲的に笑みを浮かべた。こちらの部屋にはコンピュータ 群が所狭しと並んで、低いブーム音が響いている。三杉が嬉しそうに目を見開いた。
「そう、ミサキのファイルを開く呪文だよ。海の向こうで首を長くして待っている人のために ね」
「岬のファイルだってぇ?」
 2人はまじまじと互いの顔を見つめ合った。
「なるほどね、どうやらそういうことらしい…」
 三杉の語尾がそこで突然消えた。二人の先に立ってドアに手をかけていた男があっと思った 時には、空中から飛んできた物体が肩口に命中し、ぱあんという音と共に多量の液体が飛び散 っていた。
「さあて、これは何かなぁ?」
 松山もその一瞬のうちに男の脇に駆け寄り、首にしっかり腕を回している。そしてもう片方 の手にあるのはデュポンのライターであった。
「き、きさまっ、いつの間に!?」
 周囲の部下たちが一斉にどよめいた。ここに連行してきた時点で身体検査はしっかり済ませ ていたはずだったから無理もない。
「淳がマジであんな演技をすると思ったのか?」
 松山はせせら笑った。
「少なくともおっさんたちにタダで見せてやるなんてこたぁ、絶対にないぜ」
 三杉も薄く笑う。なるほど、先ほどの抱擁が実は隠し持っていた凶器のバトンタッチのため だったことを今にして知った男たちは身動きの取れないまま歯がみするばかりであった。
「で、今ぶちまけた液体が何だかわかるかな? そしてそこに火をつけるとどうなるか…」
 男たちが三杉の言葉にまた一歩後ずさった。確かに部屋の床一面に撒かれたそれは細かい泡 を浮かべて不気味な油光りを見せている。
「な、何が言いたい!」
「一つお願いがあるんですが…」
 松山に抱え込まれたまま苦悶の声を絞り出す男に、三杉は落ち着き払って言った。
「困ったことに岬くんは身内の僕たちにさえ情報を回してくれないものでね。今回の件につい ても全く仲間はずれの状態なんですよ」
 三杉はそこで一歩下がると、端末の一つにすっと手を出し、キーボードをぽんぽんと打っ た。そして画面に現われた文字を無言で確認するとまた男を振り返る。
「素晴らしいシステムですね。これを燃してしまうのは実に惜しいです。いや、機器よりもそ の中身かな。この中の全てのデータを破壊するのは簡単ですが、僕らに必要な分だけはその前 にいただいておかないとね」
「ま、待て! 何をする気だ!」
 男の顔がいよいよ青くなった。ずり落ちそうになる男の体を、松山は嫌そうに抱え直す。
「土曜日の午後、うちの学校に来たお兄さんたちが教えてくれた連絡先、確かあなたの身内が 名義になっているトンネル会社でしたね、第一秘書さん」
「う……」
 男がうめき声を上げた。松山もびっくりしたように三杉を見やる。
「へ? やっぱりこのおっさん、おまえの知り合いだったのか?」
「直接面識はないけどね。逆に僕たちのことはよくご存知のようだ。それに、今話題の方だ よ? 今朝のトップニュースになってるくらいの」
「な、なぜ…?」
 岬の情報網から締め出されていると言ったばかりでこの指摘である。さすがに心臓の専門 家、他人のそれの止め方にも手馴れているようだ。
「あいにく彼の単独行動には慣らされているのでね、最初から当てにはしていないんです。僕 は僕で独自に調べさせてもらいましたよ」
 男は唇を噛んだ。
「君たちは一体――ミサキの何だ!?」
「う〜ん、何だと言われてもなぁ…」
 松山がのんびりと言った。三杉も皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「何でもないならいっそよかったのにね」
「チームメイト、って情報は持ってなかったのか、おっさん」
 正体を知ってなおおっさん呼ばわりする松山の根性に、政界の裏で立ち回る実力者もさすが に脱力する。
「俺たち、次のオリンピックを目指す代表選手なんだけどなあ。2年前に国際大会で優勝した こともあるし…。やっぱサッカーってマイナーなんだよな。がっくりだぜ」
「政治家さんにそこまで要求するのは無理というもんだよ、光。サッカー協会の困窮ぶりを見 たまえ」
「そう言えばそうだな…」
 三杉はまたキーボードに触れた。そのまま振り返って男に微笑みかける。
「僕を名指ししてくださったのはどなたですか? T議員を駒の一つに仕立て上げて、あなた を陰の司令塔にした、そのパートナーって…」
「――答えるわけにはいかん」
 わずかに間をおいて、男が苦しげに吐き捨てた。三杉の目がすっと細くなる。
「さっき、海の向こう、とおっしゃいましたね。既に話は国内だけでは終わらないというわけ ですか。――ひょっとして、中南米あたりまで」
 秘書氏は視界が真っ暗になるのを覚えた。たかだか17才の高校生など、と思っていたのは 確かに致命的な失策だったようだ。部下が持ってきた彼らの写真を見てあまりに岬に似ている ことに驚いたものの、それが何を意味するものかを深く考えなかったのがまさに命取りとなっ たわけだ。彼らはその顔の類似性以上に、その疫病神的資質まで共有していたのだ。
 男は絶望的になりながら壁の時計を見た。
「6時半…、向こうは夕方4時半か。駄目だ。日没までもう時間はない…」
「何ですって? それは一体何のタイムリミットです」
「ファイルの永久凍結、さもなくばデータの痕跡を全て消す!」
 秘書氏は声を張り上げた。そしてヒステリックな笑い声に変わる。
「指紋だよ! 君の指紋で世界を救えたのに!!」
「世界を救えた? この僕が?」
 三杉は皮肉を込めた目で男を見下ろした。
「冗談じゃない。一体、何の世界です。それはあなたたちが『世界』であってほしい世界でし かない。そして何から救えたと言うんです。ミサキから? 世界の秩序を乱す悪の帝王だとで も言うんですか、彼が」
 三杉はこらえきれないというように肩を震わせて笑い始めた。
「ある意味、ぴったりすぎて…」
 松山が呆れ顔でそれを見ている。
「ああ、失礼。あなたの立場もよくわかっているつもりです。でも僕はあなたがたの期待に添 えません。どうしてもね。――つまり僕は、いや、こちらの光も同様ですが、あなたがたの捜 している『指紋』の持ち主ではないんですよ」
「馬鹿な!」
 いち早く男が叫んだ。叫んだ後、その表情にじわりじわりと苦渋の色が浮かび上がる。
「では、我々が罠をかけようとしたこと自体がミサキの罠にはまっていたと…?」
「僕には詳しいことはわかりかねますが、まあそれくらいのことはやりかねないですね、彼な ら」
 有難くないところで太鼓判を押されてしまった秘書氏は、ぐったりと肩を落とした。が、そ こで突然思いついたようにがばっと顔を上げると、端末の一つに走り寄り、指ももどかしくキ ーボードを叩いた。
「あっ……」
 男は絶句する。画面に現われたのは『エラー』の一語のみだったのだ。そばで三杉が腕を組 んだ。
「なるほど、今のが米国であなたの窓口となっているパートナーの連絡先というわけですか」
 ぎょっとして振り返る男に、三杉は平然と言い放つ。
「でも手遅れだったようですよ。アクセス不能になったってことは、その連絡先をつかむため のトラップが仕込んであったんでしょう。今あなたが入力したパスワードは既に読み取られて どこか別のところに記録されてしまったはずです。――おそらく、あなたが中継に利用してい た防衛庁あたりにね」
 男は今度こそ棒立ちになってしまった。
「き、君がやったのか、こんな仕掛けを!」
「いえ、あいにく僕にはそんな時間の余裕はありませんでしたからね。たぶん、どこかの僕の 分身か何かの仕業でしょう」
 言いながら三杉はちらりと松山を見やって苦笑した。松山もにんまりと笑いを返す。それ が、合図だった。
「そーれっ!」
 掛け声とともに松山の手から火のついたライターが飛んだ。床一杯に撒かれていた液体に青 白い炎がふわっと走る。天井まで上がった大きな炎に部下たちが声を上げて後ずさったすき に、2人はさっと窓べりに駆け寄った。
「そら、淳!」
 三杉に押し上げられるようにして先に窓枠を乗り越えた松山が振り返って手を差し出す。 が、三杉はにっこり手を振るとくるりと背を向けて炎の向こうへ駆け出した。
「えっ、おい…!」
「――今度は君が追いつく番だよ」
 呆然とする松山の耳に三杉が言い残した一言が反響する。が、その時頭上に響いてきたロー ター音にはっと我に返り、松山は下の階のベランダに飛び降りた。そこからさらに隣棟のガレ ージの屋根に飛び移る。
「…松山くん!」
 地上に降り立った松山を出迎えた弥生の顔は心なしか青ざめていた。
「今、窓から炎が見えたけど…?」
「ああ、大丈夫だ。あれはヘアスプレーに引火しただけだから、燃え上がったのはほんとに一 瞬なんだ。延焼はしない」
 松山はライターとヘアスプレーだけで武装して乗り込んできた三杉の人の悪い自信を思って 苦笑を浮かべた。が、その当の本人は今…。
「あ、淳が! あそこ…!」
 弥生が指さしたビルを見上げたまま松山は横っ飛びに歩道に出た。先ほどのヘリが屋上に降 りていて、そこに押し込められようとしている三杉の姿が目に飛び込む。仲間に抱えられるよ うにしてそれに続くのはあの秘書氏に間違いない。
「…そういえば、淳、ここに入る前に言ってたわ。あなたを回収してくれ、って。自分は含め ないで」
「くそっ!」
 松山は腹立ちまぎれに歩道のブロックを蹴りつけた。
「あいつ、わざと人質になりやがったんだ!」
「…松山くん、これ」
 弥生が、手にしていた紙片を差し出す。
「あなたを待ってる間に車内電話のファクシミリにこれが届いたんだけど…」
「え、これって親父さんの…?」
 弥生はうなづいた。三杉家の乗用車に備えつけられている車内電話は本社のコンピュータの 回線と直結している。ここから、本社のコンピュータを操作して検索をすることも可能なのだ った。
「ええ、会社のデータからのようね。この書式」
「『T議員の米国における人脈と金脈』? なんだ、これは」
 弥生は昨日から騒ぎになっているT議員の失踪事件について手短に説明した。が、これが今 自分たちが直面している事態と繋がっている事実そのものが2人をあせらせる。三杉を乗せた ヘリは既に西の方向へ飛び去ってしまっていた。
 その時、反対方向からもう一機ヘリが近づいて来るのに2人は気づいた。2人の頭上を旋回 し、そしてさっきのビルの屋上に降りる。
「おーい、ひかるぅ!」
 そのローター音の間から降ってきたのは、まぎれもなく聞き覚えのある声であった。
「おまえもこっち上がって来いよぉ!」
 屋上からこちらを見下ろして手を振っている反町を目撃して、松山は思わず弥生を振り返 り、力なくはははと笑いかけてしまったのだった。











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