4 始業前
◆
「何やってんだ、ダンナ」
ダンナとは島野の呼び名であった。その妙に落ち着いた態度と風貌が同級生からも一目置か
れる一番の要因となっている。しかしそう呼んだのが若島津ともなると島野も不快そうな表情
を隠さない。いい勝負とはこのことだ。
「…英語の予習」
「今日はリーダーはないぜ」
机に広げている教科書に目を落として若島津が言う。英和辞典に指をはさんだまま島野はお
っくうそうに顔を上げた。
「反町の、だ」
無言で若島津は納得した。反町は隣のB組、理系クラスであった。不在の同室者のために今
日の時間割通り揃えた教科書・ノートを教室まで届けたのみならず、その予習状況にまで目を
配るとはさすがに島野正と言うべきだろう。
「えらく信用したもんだな」
島野はふんと鼻を鳴らしてまた教科書に目を戻した。始業まであと20分、反町が果して律
儀に授業に出て来るか、誰にも断言はできない。いや、そもそも「下界」からこの東邦に時間
通り戻って来られるのかすら疑わしい今、無駄骨と知りつつ予習の肩代わりをするほど島野は
お人好しではなかったはずだ。
「反町が帰ってくると教えたのはおまえだぞ」
下を向いたまま島野がぼそりと言った。若島津は目を見開く。
「昨夜宴会の途中で抜け出したのは、あいつん家に電話するためだったんだろ。部の名簿をわ
ざわざ出して来てたもんな。で、戻って来た時の不機嫌さは結局そのうっぷん晴らしがおあず
けを食ったからだ。あいつは家にいなかった。つまり単なるエスケープじゃないってことにな
る」
島野はそこまで言って顔を上げると、シャーペンを若島津に向けて振り立てた。
「この that はどっちの意味だ? 100年の年月、か、姫が眠っているそのことを指すのか
…?」
姫――。若島津はどきりとして視線を教科書に落とした。島野の指している箇所より先にそ
のページの挿絵が目に飛び込んだ。それはグリム童話の「いばら姫」であった。いばらのつる
にびっしり覆われた城の絵が彼の思考を別次元にさまよわせた。呪文…。それは一体何を守る
ための呪文なのか。
「…若島津?」
島野が不審げに若島津を見上げた時、ぱたぱたとあわただしい足音が教室に飛び込んでき
た。今井だった。
「大変だ! 日向さんが…!!」
反射的に二人は振り向く。島野の座っていた椅子が立ち上がった拍子にガタンと音を立てて
倒れた。
「日向さんが西棟に飛んでった!」
「寮から!?」
「ああ」
息を切らせる今井を残して二人は教室を飛び出した。西棟とは教職員用の住居棟であった。
そこには専用のガレージがある。そしてここ東邦から下界に下りるには何らかの交通手段が必
要だった。
「一緒にテレビを見てたんだ。そしたら、ニュースで中米のN国のクーデターの速報が入って
……」
日向が反射的に何を考えたのかはすぐに想像がついた。N国では中南米クラブカップの大会
が数日後に予定されており、それに先立って既にブラジル代表のサンパウロFCチームは現地
調整を始めているとの報が届いていたのだ。そしてその中にはもちろん大空翼も含まれている
はずだった。
「早まった真似をしてなければいいけど…」
「あの人が早まらないことってあったっけか?」
真理はたいていの場合あまり救いにはなってくれないものである。二人はなるべく心を楽観
寄りに持ちながら校舎の外へと駆け出した。
|