BITTERSWEET CRISIS                             第3章−4








4 始業前






「何やってんだ、ダンナ」
 ダンナとは島野の呼び名であった。その妙に落ち着いた態度と風貌が同級生からも一目置か れる一番の要因となっている。しかしそう呼んだのが若島津ともなると島野も不快そうな表情 を隠さない。いい勝負とはこのことだ。
「…英語の予習」
「今日はリーダーはないぜ」
 机に広げている教科書に目を落として若島津が言う。英和辞典に指をはさんだまま島野はお っくうそうに顔を上げた。
「反町の、だ」
 無言で若島津は納得した。反町は隣のB組、理系クラスであった。不在の同室者のために今 日の時間割通り揃えた教科書・ノートを教室まで届けたのみならず、その予習状況にまで目を 配るとはさすがに島野正と言うべきだろう。
「えらく信用したもんだな」
 島野はふんと鼻を鳴らしてまた教科書に目を戻した。始業まであと20分、反町が果して律 儀に授業に出て来るか、誰にも断言はできない。いや、そもそも「下界」からこの東邦に時間 通り戻って来られるのかすら疑わしい今、無駄骨と知りつつ予習の肩代わりをするほど島野は お人好しではなかったはずだ。
「反町が帰ってくると教えたのはおまえだぞ」
 下を向いたまま島野がぼそりと言った。若島津は目を見開く。
「昨夜宴会の途中で抜け出したのは、あいつん家に電話するためだったんだろ。部の名簿をわ ざわざ出して来てたもんな。で、戻って来た時の不機嫌さは結局そのうっぷん晴らしがおあず けを食ったからだ。あいつは家にいなかった。つまり単なるエスケープじゃないってことにな る」
 島野はそこまで言って顔を上げると、シャーペンを若島津に向けて振り立てた。
「この that はどっちの意味だ? 100年の年月、か、姫が眠っているそのことを指すのか …?」
 姫――。若島津はどきりとして視線を教科書に落とした。島野の指している箇所より先にそ のページの挿絵が目に飛び込んだ。それはグリム童話の「いばら姫」であった。いばらのつる にびっしり覆われた城の絵が彼の思考を別次元にさまよわせた。呪文…。それは一体何を守る ための呪文なのか。
「…若島津?」
 島野が不審げに若島津を見上げた時、ぱたぱたとあわただしい足音が教室に飛び込んでき た。今井だった。
「大変だ! 日向さんが…!!」
 反射的に二人は振り向く。島野の座っていた椅子が立ち上がった拍子にガタンと音を立てて 倒れた。
「日向さんが西棟に飛んでった!」
「寮から!?」
「ああ」
 息を切らせる今井を残して二人は教室を飛び出した。西棟とは教職員用の住居棟であった。 そこには専用のガレージがある。そしてここ東邦から下界に下りるには何らかの交通手段が必 要だった。
「一緒にテレビを見てたんだ。そしたら、ニュースで中米のN国のクーデターの速報が入って ……」
 日向が反射的に何を考えたのかはすぐに想像がついた。N国では中南米クラブカップの大会 が数日後に予定されており、それに先立って既にブラジル代表のサンパウロFCチームは現地 調整を始めているとの報が届いていたのだ。そしてその中にはもちろん大空翼も含まれている はずだった。
「早まった真似をしてなければいいけど…」
「あの人が早まらないことってあったっけか?」
 真理はたいていの場合あまり救いにはなってくれないものである。二人はなるべく心を楽観 寄りに持ちながら校舎の外へと駆け出した。




















 山本和久は朝から不吉な予感にさいなまれていた。昨日の武蔵高へのドライブの疲労もあっ たのだろうが、それに増して、彼の婚約者が昨夜とうとう帰って来なかったことが彼の不安を 大きくしたのだ。
「また何かやらかしたんじゃないだろうな…」
 愛情と信頼は時としてあまりに真実を突きすぎることがあるものだ。そして彼の婚約者は普 通の女ではなかったのである。
 トラブルメーカーという言葉があるが、彼の婚約者の場合、トラブルが発生するやそれを煽 りまくってますます大きくしてしまう天与の才能があるのだ。自らその役を買って出たとは言 え、山本氏がそのフォローのためにずいぶん苦労を重ねてきたのは事実だった。
「おや?」
 北東の空から微かに音が聞こえてくる。ガレージ前でボンヤリ立っていた山本氏は空を見上 げた。この場所は西棟と体育館にはさまれた谷間のようになっているため、彼の位置からその 上空を見渡すことはできなかったが、音を聞く限りヘリコプターが近づいているのは間違いな い。
「京子さん、帰って来たのかな…」
 派手な立ち回りを好んでいる小泉理事の専用ヘリ、ベル・ジェットレンジャー機の音にそれ は似ていた。山本氏はいくぶん」ほっとしながらその到着を待つ。ちょうど朝の太陽を背にす るかっこうで、その音は彼の頭上に近づきつつあった。やがて、体育館の丸い稜線に逆光の姿 が現われて――。
「うわぁあああああああっ!!」
 現われて……来たのは、体育館すれすれの超低空飛行から急降下してきたヘリであった。
 山本氏は反射的に地面に身を伏せた。いくらなんでもそこまで低くは飛ばないと思うが。
「ぶ、ぶつかるぞ!!」
 ヘリは完全に失速状態にあった。体育館はギリギリでやりすごしたものの、続いて迫る西棟 を避けようとしてバランスを失い――。
 大きな鈍い音が響く。屋上のフェンスにヘリのスキッドが接触したのだ。横倒しの体勢にな ったヘリはそのまま建物の壁を垂直に滑り降りるような形でずるずると崩れ落ち、大音響とと もにガレージを直撃した。
「たっ、大変だっ!!」
 まさに鼻先に落ちて来たヘリに山本氏は完全に動転してしまった。一瞬の間をおいてガレー ジから火の手が上がったのを見て思わず叫ぶ。
「乗ってた人は…!?」
 駆け寄ろうとしてはっと足が止まる。崩れ落ちたガレージの中からゆっくりと歩み出てきた 人影が目に入ったからだ。
「やあ、これは山本さん、おはようございます」
「き、君…!?」
「すみません、朝からお騒がせして…。ちょっと慣れない真似をしたものでやりすぎてしまっ たみたいです」
 三杉淳は片手で額の傷を押さえながら、それでもあわてて走り寄って手を貸そうとする山本 氏にいつもの笑みを見せた。
「他には? 君一人じゃないだろう?」
「ああ、他のも大丈夫です。腰を抜かしているだけですから。どのみち熱くなれば自分で出て 来ますよ」
 訳がわからないまま絶句する山本の前をその時ザッと旋風が吹き過ぎた。と思った途端、聞 きなれたドラ声が耳をつんざく。
「バカ野郎、てめ三杉っ!! なんてぇマネしやがるっ! 俺が使うとこだったのに、ガレージ の車、全滅じゃねえか!」
 三杉は視線だけを上げて、いきり立つ日向をじっと見つめた。
「あいにく僕の意志でこうなったわけじゃないよ。僕は言わば被害者だ」
「抜かせ! おまえがここにこうしていること自体、疫病神の証拠だぜ!」
「わっ、火が回る!!」
 山本氏は背後を振り返って叫ぶと、にらみ合う二人を引きずってその場を離れた。
「早く、誰か! 早く消火を!!」
 予感は律儀にも現実となってしまったのである。




















「日向さんだけじゃないのか?」
「ああ、若島津と島野、あれっきり戻って来ないんだ…」
 教室の最後列で窓越しにひそひそやっているのはここB組の川辺とD組から遠征してきた小 池であった。
「おっと、来たぞ」
 B組の担任が廊下の向こうからやって来るのを目にとらえて、小池はこそこそと自分の教室 に退散する。
 川辺は緊張した。不穏な空気というものには慣れてはいた。そればかりかここ東邦での4年 半に渡る生活の中で大抵の「異常事態」に驚かなくなっている。が、それと同時にある種の 「勘」も発達してしまったように思う。災難を呼び込むことにかけては天才的な男の背を見な がら走ってきた彼らであるから、それは一種の防衛本能であったかもしれないが。
 一見何の変わりもなく始まったいつも通りの週明け。が、小さな不確定要素が彼の頭の中で ひとつひとつ積み重なり、そしてある疑念へと形を成しつつあったのだ。
「秋山! 宇部地! 榎木!…」
 担任の点呼の声に川辺ははっと我に戻った。と、同時に胸ポケットの手帳に連想が飛ぶ。反 町はやはりダメか…?
「…川辺!」
「は、はいっ」
 6番目の自分の順も上の空で、川辺は窓の外に落ち着かない視線を投げた。変に確信してい るふうの島野を信じたのは失敗だったのか? だが、今は賭け自体よりも反町自身が鍵を握っ ているに違いない何かが――判然としないながらも――ひどく心にひっかかる。飛び出した日 向小次郎。遠くN国で起きたクーデターと大空翼…。
「岸野! 栗沢! 佐伯! 榊!…」
 このB組でサッカー部に属しているのは彼と反町だけであった。反町が月曜の授業に遅刻す ることなく戻って来られるか否か、で賭けられた前日の賭けの結果は彼一人が確認することに なる。反町の出席番号は14番。担任は出席簿から顔も上げずに淡々と呼び続けていた。
 と、その時である。廊下を駆けて来る足音が近づいたかと思うと、教室の扉が勢いよく開い たのだ。川辺は目を見開いた。
「…そ、りまち!?」
「はいっ、先生!」
 ちょうど口にしかけていた名前を扉を開けた人物に向けてしまった担任は、その過剰に元気 な返事に思わず後ずさる。
「セーフ? セーフですよねっ」
 Vサインつきでそう念を押すと、反町はくるりと振り向いて川辺に顔を向けた。
「勝(かつ)、集合かけてくれ! 2年レギュラー全員ねっ!」
「そ、反町っ!」
 かなり遅いタイミングで声を荒げかけた担任に、反町は今度は真剣な顔で言った。
「先生、すぐ連絡を! 西棟のガレージが炎上中なんです!」
「な、なんだって!?」
 どっとざわめく教室から、次の瞬間二人の生徒の姿が消えていた。













「おい、今の反町じゃなかったか?」
 走り過ぎざまに窓ガラスをノックする音。窓越しの今井の質問に川辺はこっくりうなづい た。
「そ、賭けは成立したぞ。サッカー部は朱雀門に集合!」
「賭けと集合と何のカンケーがあるんだ?」
「俺が知るかよ。くそー、それより月末の千円は痛ぇ…」
 A組から合流した松木・高島がぼやきつつなだれ込み、各教室から一人また一人とサッカー 部員がさらわれていく。まるで神隠し。
「出入りだ、出入りだぞ――っ!」
「日向さんに加勢するんだ!!」
 何やら勘違いしている連中もいるようだったが、とにもかくにも朝一堂々、サッカー部2年 レギュラーたちは揃ってエスケープを果たしたのだった。











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