BITTERSWEET CRISIS                             第4章−1






第4章
風は遠くへ吹く



1 ラ・ムーラ





 午後から風がぴたりと止んだ。緊張の一日の中で村人たちは入れかわり立ちかわり大統領の 元を訪れて激励や情報を残して行ったのだったが、夕方近くになってミゲルじいさんが馬車の 用意を始めたのを見ると、またも密やかなささやきとともに静まり返った。
「どうしても行きなさるんで」
 ミゲルじいさんは不安そうな顔で帽子を手渡した。ソルテス大統領はにっこりとそれを受け 取る。
「ああ、ナサナエルもアマデロ将軍と合流を果たしたことだし、いつまでも首都を連中に明け 渡しておくわけにはいかんからね」
 ソルテスは御者台から手を伸ばしてミゲルと固い握手を交わした。
「大丈夫。サン・バルトロはきっと我々の手に取り戻してみせるよ。そしてもちろん我がサン タ・マリアも奪われはしない」
 独立を目指す革命の時代、彼らは祖国を民族に取り戻すという悲願の下に、母なる国を聖母 マリアの名に託して呼びならわしていたのだった。当時の熱い想いを呼び覚ますその名は、今 ソルテス自身の強い決意を示すものでもあった。ミゲルじいさんはその言葉に、また少し悲し そうな表情を見せた。
「…では、気をつけて行ってくだされ」
 馬車が動き出す。遠ざかりながらソルテスはふと振り返って声を上げた。
「あの子を、頼むよ。きっと…助けてやってくれ、きっと」
 あの子とは…? じいさんは一瞬ぽかんとしたが、すぐに負傷した少年のことだと思い当た り、小屋を振り返った。しかしなぜ大統領がそんなことをわざわざ口にしたのか。村外れの橋 を渡って行く荷馬車の姿をもう一度見やって、じいさんはひゅーっと息をもらした。
「ミゲルじいさん!」
 反対側から声が響いた。
「大統領は、もう…?」
「ああ、たった今サン・バルトロに向かいなさったが」
 息を切らせてその場に駆け込んで来たのは郵便屋のパウロだった。
「大変だ、軍のトラックが押し掛けて来る! 谷向こうの国道からだ。ここが知れちまったん だ!」
「何だと!」
 見送りに集まっていた村人たちが一斉にどよめいた。
「村長の不在の時になんてこった…」
「よし、とにかく谷を封鎖するしかねえ! 男たちを集めろ!」
 声を掛け合って散って行く男たちの後ろでミゲルじいさんはちょっと躊躇したように自分の 家を振り返った。エプロンを握りしめていた向かいのおかみさんが安心させるようにうなづい てみせる。
「ミゲル、あの子たちはあたしが…」
「頼む」
 谷を見晴らす台地にあるこのビセンテの村は農地としては貧弱な土地だったが、9年前の革 命を持ち出すまでもなく、古くから砦として使われていた歴史があった。谷の反対側をかすめ るように国道が走っていたが、そこから車両でこの村に入るには谷を回って1本きりの橋を使 うしかない。大統領が通って行ったのは谷沿いにいったん反対側へ出る馬車道であった。その 先は細い山道をたどることになるから、トラックとは鉢合わせすることはないはずである。ま もなく闇が訪れればそれに紛れて首都サン・バルトロまで川を遡って行けるだろう。
 村の教会がゆっくりと鐘を鳴らし始めた。おかみさんは気ぜわしそうに肩をひとゆすりして 村道を走って行った。












「ねえ、なぜ?」
 馬車の上から呼びかけられてサンターナは手を止めた。荷台に横たわったまま翼がその青白 い顔をこちらに向けている。
「なぜまっすぐ見ないの、お祖父さんを。朝から話だってろくにしてないじゃない…」
「別に、俺は…」
 触れてはならない話題と知って、あえて尋ねているのであろう、翼のひたむきな視線がサン ターナの胸に深く刺さった。
「話すことも特にないし、それだけだ」
 サンターナはまた作業の手を動かし始めた。谷の方角からは遠く砲撃の音が響いてくる。戻 ってきたミゲルの勧めで2人は来た時と同じルートで村を脱出することになったのだ。外は闇 が下り始めている。まだ傷による熱が引かない翼のために防寒用の毛布を多めに用意している のだった。
 サンターナは表情を動かさず淡々と準備を続ける。翼はその横顔を眺めながらしばらく黙っ ていたが、やがて決心したように身を起こしかけた。
「…お、おい、駄目だ、ツバサ!」
 気配に気づいたサンターナがあわてて飛んできた。押さえようとするサンターナの腕を下か らつかんで、翼はまた同じ問いを繰り返した。
「ねえ、なぜ避けるの、お祖父さんを。このまま別れちゃう気なの?」
「…避けてなんか、いない!」
 サンターナは絞り出すような声を出した。
「避けたいのはじいさんじゃない。この国でもない。本当に避けたかったのは、見たくも聞き たくもなかったのは…!」
「どうしたんだ、一体…!?」
 小屋から出てきたミゲルじいさんがその場の様子に驚いて大声を上げた。サンターナはゆっ くりと向き直る。無表情な青い瞳が大きく揺れたかと思うと、直立不動のままぽろぽろと涙を こぼし始めた。
「サンターナ!?」
 翼が一番に叫んだ。サンターナのシャツを握りしめて、半ば身を起こしかけている。
「ごめん、ごめんね、俺…」
「俺はいつも恨んでた。親父の体を流れるこの国の血を。サンパウロでの暮らしは苦労は多く ても平穏だったんだ。それを捨ててでも生まれた国の革命に走った親父の血を、俺はいつも恨 んでた」
 サンターナはそこまで言って急に口を歪め、片手でばっと顔を覆った。
「親父は勝手に外国に行って外国で死んだ――俺はずっとそう信じていたかったんだ…」
「カルロス…」
 あっけにとられていたミゲルじいさんはやがてゆっくりと歩み寄って来て、立ったまま嗚咽 する孫の、残った片手を取った。
「逃げてはならん、カルロス。おまえの体にも半分その血が流れていることに目をそむけては ならんのだ」
 ミゲルじいさんは荷台の上で心配そうな目を向けている翼の頭をくしゃっとなでて微笑んで みせた。
「血は滅ぶ。――だが血は再生するのだ」
「じいさん…」
「見ての通り、闘いは終わらん。わしらはこの貧しさとも闘わねばならんし、何よりわしらが わしらであるためにまだまだ多くの犠牲を払わねばならんだろう。だがなあ、この国はわしら の国に違いなかろう?」
 じいさんはサンターナの手を離すと翼を抱えて毛布に横たえた。落ちていた濡れタオルもか け直してやる。
「息子は死んだ。でも国は生きておる。苦しんではいるが生きる気力はまだまだ失ってはおら ん。それに孫がこうやって元気でやってるのを見られるんだ、わしもうかうかしておれん」
 サンターナはびっくりしたようにじいさんの顔を振り返った。じいさんは目を赤くして笑っ ていた。
「わしはわしの孫を誇りにしてるんだ」
 ミゲルじいさんは荷馬車から離れると、頭一つ大きい孫の肩を強く抱いた。
「おまえにはおまえの闘う場所がある。それは幸せなことだ。しっかりおやり、カルロス」
「じいさん…」
 サンターナは静かに身を離すとひらりと御者台に飛び乗った。手綱を手に取り、じっと見下 ろす。
「――助けてくれて、ありがとう」
 ミゲルじいさんはもう何も言わなかった。家の前に立ったまま、ただ馬車を見送る。そして その姿も程なく夕闇にのまれて行った。
 ロバが首を振って低くいなないた。荷車の振動は、余韻のように2人の体に染み透ってい く。
「――俺、岬くんのこと考えてたんだ」
 首のところまですっぽりと毛布にくるまれて翼は雲の切れ間の星を見ていた。
「岬くんはオリンピックに出てくれるかな…」
「え…?」
「岬くんは俺のためならどんなこともやってくれるんだ。でも自分のためには何もしない。今 度のことも――きっと何もかも捨てて動いてくれたに違いないんだ」
「強く望め、さすれば叶わん…」
 低くつぶやいて、サンターナは翼を振り返った。
「賛美歌だ。なんでか急に思い出した」
「――強く望め、さすれば…」
 翼も真似てつぶやいた。
「望めば、叶うんだね。きっと叶うんだよね」
「おまえが言うと、どうも妙だな」
「えーっ、なんでさー」
 サンターナは目を細めて微笑する。奇妙な休日が暮れていった。












「山本先生、山本先生。お電話がかかっております。外線2番をお取り下さい」
 校内放送が自分の名前を呼んでいるのに気づいて、山本氏は側の事務室に駆け込んだ。受話 器を取り、切り換えスイッチの2番を押す。
「もしもし、お待たせしました。山本です…」
 言いかけた言葉は相手の声にさえぎられてそこでストップしてしまった。同時に彼も叫ぶ。 「京子さん! 今、どこにいるんです!?」
『聞いたわよ、そっちこそどうなってるの?』
「どうなってるのか、誰か説明してほしいですよ! とにかく騒動の中心にいるのはサッカー 部の連中です。あと、武蔵高の三杉くんたちも来ていて…」
『まあ…!』
 電話の向こうで小泉理事が息をのむ気配がした。
『三杉くんですって? それ、本当なのね?』
「嘘言ってもしかたありませんよ…」
『わかったわ。すぐ戻ります。生徒たちや施設への被害はさほど大きくないって話だけど、そ の背景のほうはどうやら只事じゃないわね。とにかく頼むわ。日向くんたちに万一のことがな いようにね』
 頼まれてもどうしようもないものはどうしようもない。一応複数になっていたが、その焦点 が一人に絞られているのは間違いなかった。そしてその一人こそがもっとも手に余ることは双 方とも承知の上である。
『私、さっきまで三杉くんのところの本社に行ってたのよ。あの誘拐事件がらみでね。一晩中 情報収集に走り回ってたの。伯父さんってばほんとに人使いが荒いんだから…!』
 東邦グループ総帥の孫である小泉京子は、現職参議院議員を母方の伯父に持ち、生来の物好 き、いや、向学心からしばしば政界の実地探査に励んでいるのだった。しかしどう見ても教育 畑より適性がある様子で、今や伯父の片腕もしくは「奥の手」とさえ一部で囁かれている。
 非常勤講師として形だけ東邦につなぎ止められている山本氏の立場は、小泉家にとっては江 戸屋敷の北の方、といったところである。男女逆転だが。
「えっ、あの誘拐事件? 三杉グループがそれと何か関係あるんですか」
 小泉女史は少し声を低めて説明をした。深夜を回った頃に防衛庁から捜査陣にもたらされた 極秘の報告が事態を大きく動かしたのだという。防衛庁のメインコンピュータに突如「混線」 してきたある通報。
『それがね、偶然起こった間違い送信のような形にはなっていたけれど、どう見てもうっかり 紛れ込むような場所じゃないでしょ。しかも、T議員の誘拐は狂言だよ…なんて、いきなり言 い出すのよ』
「……」
『で、数時間後にまた届いたのよ。今度は膨大な量の数字のファイル。同じアカウントから ね。最初私たちも意味がわからなくて混乱したけど、調べてみたらもう大騒ぎよ。T議員の政 治資金のルートを詳細に分析したものだったの、米国の有力企業との裏関係を暴いた証拠デー タ。で、挙句の果てが今朝早くの逃走劇。T議員は結局「保護」じゃなくて「任意出頭」扱い になったわけよ。党本部も唖然、だったわ』
「ちょっと待って、京子さん。まさかその通報が…?」
『ええ、三杉グループ本社のアカウントだったの。それで私も急行して調べたんだけど、どう やら同じサーバーを経由して、偽装のための中継に利用しただけだったってことがわかって。 結局通報の出どころはどことも特定できなかったんだけど…』
 女史は言葉を濁す。含むところがあるのだろう。山本も今目の前で繰り広げられている騒ぎ を思うと、その偶然を偶然と言い切ることはためらわれた。
『でも、証拠は何もないのよね――』
 小泉女史はもう一度つぶやくように繰り返した。











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