BITTERSWEET CRISIS                             第4章−3








3 谷






「三杉くんってば…!」
 素通しになったキャビンには、ローター音が直接響く。
「…ねえ、死んだふりなんてやめて、目を開けてったら!」
「――少し、静かに」
 一言言うたびに、息が切れる。
「してくれないかな、岬くん。おちおち死んでもいられないじゃないか…」
 ようやく目を開いた三杉は、床の上からぼんやりと天井を見た。それからゆっくりと視線を 横に下ろしていくと、ドアのないそこには、多摩山系ののどかな緑の山々がはるかに広がって いる。
「…息は、してる?」
 反対側からささやくように声がかかる。さっきまでの必死な大声とは対照的に。
「たぶん」
 三杉は一度目を閉じて、自ら確認するように息を静かに吐いた。
 ガラスの破片が散乱する前部シートには触らないように注意しながら、岬は倒れ伏している 三杉を覗き込んでいたのだった。そのしっかりした返答に、少しだけほっとしたように肩の力 を抜く。
「……飛んでる、みたいだね」
 再び目を開いて、三杉はヘリの前方を見た。岬もそちらに目をやる。
「と言うよりも落ちてるんだよ。ゆっくりとね」
 不安定ながらもローターの回転はある程度の浮力を保証していた。テールローターを損傷し た機体はごくゆっくりと自転をしつつ高度を下げ続けている。三杉はエンジンの音に耳を澄ま せた。
「エンジンの一基が止まりかけている…」
「えっ」
 不吉な言葉に、岬はぎくりとパネルを振り返った。
「スロットルは、どうなってる? MAXに、入れてみて…」
 岬は無言で指示通りにした。計器の表示はどのみち彼にはチンプンカンプンであったが、ど のメーターもいい状態を示しているようには思えなかった。
「あまり、もちそうには、ないね」
「……」
 今度は二人で耳を澄ませる。エンジン音は復活した様子はなかった。
「ボクね、君とだけは心中したくなかったな」
「ああ、同感だね」
 三杉は苦しそうに体の向きを変えると、岬を見上げて微笑んでみせた。
「どちらかが生き残れば心中にはならないよ」
「あと、二人揃って助かる、ってのもあるんだけどね」
 さて、選択肢はどう転ぶのか。


















「松山、このバカ! おまえこいつで飛んだことあんのかよっ!」
「飛び始めてから訊かないでくれねえか」
「しかも、おまえパラシュートもつけずに!」
「あれ?」
 松山は言われてきょろきょろと自分のハンググライダーを見回した。
「それに、ハーネス! ちゃんとこうやって体全体を固定しとかないと落っこちまうぞっ!」
「…るせぇなあ、いちいち」
 ぶつくさ言いながらも一応日向を参考にしてハーネスをもぞもぞと体の下に伸ばし、ねじれ ていた吊りロープも直す。パラシュートのことははなから頭になかった。つまり山の上に置い てきてしまったらしい。
「ンな行儀作法なんかどうだっていいんだよ! それよりあいつらを追うほうが先決なんだ」
「抜かせ、泡食ってデタラメやっちまったくせに意地張るんじゃねえよ。第一、こんなことで 三杉のヤツがくたばるとでも思ってるのか? おまえがジタバタしても始まらねえんだよ!」 「だから、余計に心配なんだ…」
 松山の口調が、その名前を出されて急に重くなった。
「あいつは自分の病気のことなんてまるで気に掛けちゃいねえ。気に掛けてないフリを通しち まう。…だからこそ、いつ倒れちまうかわかんねえんだよ」
「……」
 日向は黙って眉根を寄せた。当惑している。彼の目から見る限り、この過激な双子がそうい う悲壮感を抱えて生きているようにはとても思えなかったのだ。
「にしてもトレぇんだなあ、これってよ」
 松山はハンググライダーを指してみせた。
「紙飛行機みたいだな、実は」
「ちっ、あせってんのか呑気なのかどっちなんだ、まったく…」
 彼らが降下を続けているこの谷はあと少しするとやや北にカーブしてその先が扇状に開けて いく。そのまま川をたどるとH市街に至るのだ。
 日向はその方向を指した。
「あの谷の出口に近くなるとな、ちょっと気流が変わるんだよな。よくあのへんで流されるん だ、ハンググライダーも…」
「ヘリもかっ!?」
 松山は息を飲んだ。先を行くヘリの様子がおかしい。機体が傾いて、そのまま風に流される ようにふらふらと旋回しはじめたのだ。
「あっち、曲がってくぞ! 追いかけないと…。おい、こいつって向きはどうやって変えるん だ? バイクと同じか?」
「俺はあいにくバイクは乗らねえ」
 悠然と応じる日向を松山は睨みつけた。
「おまえな、さっきから偉そうに言ってるが、自分は飛んだことあるんだろうな」
「あるぜ、当然。1回きりだけどな」
「なにぃ?」
「ついでにそん時は途中で落ちた」
「こらこらっ!!」
 松山は腹をくくった。バイクもハンググライダーも同じ原理だ、と開き直る。空を飛んでい ようと地上を走っていようと地球の力学に変わりはないのだ。――たぶん。
「俺はこっちから行くぜ!」
 背後から叫ぶ日向に向かって、松山は親指を立ててみせる。黄色のグラデーション・ストラ イプのセールと、トリコロールのセールがふわりと左右に別れた。


















「いいですか、山本さん。何が何でも我々のほうが先に着くんです」
 山本氏は身の不運を嘆かずにはいられなかった。助手席の若島津の目は完全に据わってい
る。その視線は、彼らが疾走している東邦学園専用登山ハイウェイを通り越して、谷に浮かぶ
二つのセールに釘付けになっていた。
 山本氏は慣れないクルマのステアリングを握りしめて歯を食いしばった。どうひいき目に見
てもケータリング業者のバンがサーキットに向いているとは言えないだろう。タイヤをきしら
せてまた一つ急カーブを乗り切った山本氏は背後から拍手を受けてミラー越しに睨みつけた。
「すごい、すっごいなー、せんせ。そのまま鈴鹿に行けそう!」
「反町、騒いでないでさっさとそいつを済ませてしまえ」
「はーい…」
 手にしたバンソーコーの束に目を落として、反町は一応素直に返事した。濡れ髪をひと振り
してまた作業に戻る。今度は左目の上だ。ちょっと顔をしかめてバンソーコーをぺたりと貼っ
た。医務室からあっと言う間に舞い戻ってきて強引に同行したのはいいが、はっきり言って手
当ての途中だったのだ。
「平気だって言ってんのにさ、無理やり服をはぎ取ってシャワー室に放り込むんだもん、早百
合ちゃんのえっち!」
 ちなみに早百合ちゃんとは50代間近の養護教諭である。さすがにガムテープ攻めは免れた
らしい。
「んー、もう顔は貼るとこないな。透明タイプって目立たないからやだっ!」
 いやいや十分目立っている。なにしろ顔も手もバンソーコーに覆われつくしているのだ。傷
一つ一つは深くないにしても、この数では地味になりようがない。
「健ちゃん、覚えてる? 学園祭の時のハンググライダー総墜落事件。航空部の体験飛行で日
向さんのD組が飛んで、みーんな落っこちたって、あれ」
 反町はまた次の一枚を出して紙をはがす。先ほどから口をきいているのは彼一人だった。
「俺、見てたんだけどさ。日向さんて、一番最後まで持ちこたえたんだぜ、あの突風の中で」
 右手指にも左手で器用に貼っている。足と同様に、手も両手が利くのだ、この男。
「結局、ああいうのって単に運がいいか悪いかじゃなくて、そういうトラブルと仲良しなんだ
と思うな。もしかして、トラブルになつかれてるとかね」
「なつかれるだけならマシってものさ。トラブルを手なずけて飼い慣らしてしまう人間だって
いるんだからな」
 ようやく山本氏が口を開く。だがそれが誰のことか訊くのは気の毒なので勝手にこちらで仮
名にすることにした反町だった。
「でも小泉さんは、飼い慣らしてどうするつもりかな」
「芸を教え込むに決まってるだろう」
 若島津も不機嫌なまま話に加わる。
「そっか、誰かさんになつくように、仕込むんだねっ!」
「もう決めたぞ!」
 突然山本氏が叫んだ。
「京子さんにその気がないなら、俺が結婚退職してやる!」
「いやー、それはめでたい。ついに長い春に終止符ってやつですねっ! サッカー部あげての
大宴会で祝いましょ〜」
「断る! もうこれを限りにサッカー部とも東邦ともすっぱり縁を切るんだ!」
「くすん。冷たい…。でも未来の理事長候補がそんなことおっしゃっていいのかなー」
「面倒は彼女一人で十分過ぎるくらいだ。これ以上寿命を減らし続けてみろ、27年間の婚約
期間より結婚期間のほうが短くなりかねない!」
「ふうん、ほとんどセミの幼虫?」
 車が急にセンターラインをはみ出した。肩で息をする山本氏に気の毒そうな視線を投げた若
島津であったが、突然外を見て目をみはった。
「…見ろ、反町」
「あー、ヘリがぁ〜!」
 かなり追いついて来ていたものの、まだ彼らより高度の低いところを飛んでいるヘリが不自
然に左右に揺れ始めたのだ。ローターの回転がいよいよ不規則になっているのがわかる。
「…あの、バカ――」
 そのヘリに両側からはさむように近づこうとしているハンググライダーの様子に気づいて若
島津がうなった。反町も窓にしがみつく。
「あ、あ、巻き込まれちゃうよ、あれじゃ…!」
「山本さん…」
 若島津が低く言った。
「もっとスピード上げてください。いっそ飛び下りてもいいですから」
 本当に、いっそそうしたい気分の山本氏であった。











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