1章ー3















「はい、反町さん、搭乗券です。松山さんも、どうぞ」
 タケシに手渡された搭乗券を反町はぼーっとした目で見下ろした。出発ロビーの喧騒も まったく耳に届いていない様子だ。
「反町さん、昨日は大変じゃなかったですか?」
「へ…?」
 ちょっとぎくりとして反町は顔を上げる。
「忘れ物でしたっけ、たった一晩なのに学校まで往復なんて、疲れたでしょう」
「学校だけならここまで疲れなかったんだけどな…」
「はぁ?」
 大きな目をさらに丸くする後輩にはそれ以上答えず、反町は隣の松山の座席番号を覗き 込む。
「やっぱりおまえの隣かあ。俺、静かな席がいいなー。なあ、タケシ、おまえの隣、空い てない?」
「すみません、佐野さんと約束してたので…。通路隔ててならなんとかなるかもしれませ ん」
 沢田タケシくんは申し訳なさそうに答えた。
「あー、ならいい。佐野がいるならその隣は次籐だろ。となると近くには早田がいるはず だ。そんなとこで眠れっこないや。南葛の連中は論外だし、立花たちもアレだし…」
「俺なら静かだぞ、反町」
 気配もなく背後に響いた声に、反町は総毛立った。
「…や、やあ、健ちゃん、おはよー」
「大事な忘れ物、ってのは三杉のことだったのか? それにしちゃ二人がかりでまた置き 忘れてきたようだが」
 チームのほとんどの選手たちは昨夜は空港近くのホテルで一泊している。にもかかわら ず敢えて東邦まで戻ったのだから、口実が通じない人間がいてもおかしくない。なにしろ この4つ子から言語道断な被害が東邦学園にもたらされてからまだほんの1ヵ月半しかた っていない。警戒するなと言うほうが無理である。
「――淳は少し遅れて来る。あさってJOCの連絡会があるから、その後でないと動けな いんだ」
「ふーん」
 若島津は少しトゲをゆるめて松山を見た。松山が気質的に嘘をつけないことはチームの 誰でも知っている。日本サッカー史上例のない高校生ばかりのオリンピック代表にスポー ツ界の長老たちから何かとプレッシャーが来ていることは彼らの耳にも届いていた。サッ カー協会に限ってはもともと例外的に能天気な体質だったため、両者のやりとりのチグハ グさは目に余るものがあり、結局JOC相手に水面下で孤軍奮闘しているのが片桐氏に白 羽の矢を立てられた三杉だったのである。
「まあいいさ。おまえらの道楽に興味はない。それより日向さんを見なかったか?」
 若島津の人生哲学は『無常』であった。ただし唯一の例外がある。すべての事象に優先 する例外が。
「トイレじゃねーのか? それとも取材の記者にでもつかまってるとか」
「そんな命知らずな記者がいる? 東都スポの田島さんはソウルで先行取材らしいし」
 無責任な会話を交わしていた松山と反町は、しかし次の瞬間自分の発言を後悔すること になった。
「あ…!」
「一樹〜っ!」
 彼らの背後から響いた明るい声。
「……母さん!?」
「連絡の一つもよこさないで出発するような薄情な息子を見送りに来てあげたのよ。感謝 なさいな」
 反町の母は大きなショルダーバッグと大きなカメラをたすきがけにした豪快な姿で歩み 寄ってきた。
「そのかっこで、どこが見送りだよ〜。でも一人でこんなとこで仕事?」
 周囲を見渡してもスタッフを連れている様子はない。第一、管理職の彼女が現場に来る こと自体、変ではないか。
「今日は休暇を取ったの。仕事じゃないわ。でもせっかくだったし、日向くんをつかまえ ちゃった」
 見上げたプロ根性なのか、ただの物好きなのかはともかく。
「――で、まんまとつかまっちまったってわけですか、あんたは」
 その後ろからばつが悪そうにのそのそと現われた日向を、冷たい目で迎える若島津であ った。なに、女性に弱いのが情けないのではなく、自分の目の届かないところでコトが運 ぶのが嫌いなだけなのであるが。
「いきなりよ、反町の母です、なんて声掛けられて、つい…」
「まあ、無理ないですけどね、この様子じゃ。相手は百戦錬磨のプロだ。それに反町の血 筋ときた日には…」
 初対面なのにそんな気がちっともしないこの女性を、妙に納得しながら二人は改めて眺 める。一人しぶとく食い下がっているのは反町だ。
「で、ほんとの目的は何? どうせ俺はついでなんだろ?」
「あたり」
 この年齢でハートマークを飛ばせるとはさすが反町の母。
「お父さんが出張の途中で一時帰国するの。今日のお昼の便よ。あなたとはちょうどすれ 違いになるけど」
「えー、また唐突だなあ、父さんも」
「あなたと同じね、行動パタンが」
「う〜!」
 かの反町一樹を言い負かす人間というのを初めて目の前にして、日向はただ呆然として いる。
「ねえ、日向さん」
 そんな日向を、若島津は横からとんとんとつついた。
「あんた、突撃インタビューだけじゃ足りなくて、こんなもんまで拾って来たんですか」
「え!?」
 言われてようやく日向は背後の存在に気づく。
「なーんだ、反町くんのお父さんとは会えないのかー。残念。オレ、あの時のお礼を言い たかったな」
「つ、翼っ!?」
 大きく飛びのいて叫ぶ日向に、翼はにこっと笑顔を返した。
「うん」
「うん、じゃねえ!」
 日向のみならず、その場の全員が目を丸くしたのは当然だ。11月というのに軽装で、荷 物は小さなザックを背負っただけ、相変わらずの屈託のない笑顔を浮かべているこの少年 は、確か1ヵ月半前にとある事件で重傷を負って病院のお世話になっていたはずだ。ブラ ジルで入院生活を送っているはずが、なぜここにいるのか。
「だ、大丈夫なのか、おまえ! 死ぬとこだったんだろ?」
 世間には伏せられているその時の詳しい事情を、たまたま現場に立ち会った父親からし っかり聞き及んでいた反町である。
「大丈夫だよ。ギプスはもう取れたもん」
「そういう問題か?」
 松山が呆れたように腕を組んだ。どっちにしろ、翼のペースに口出しのできる者はいな い。
「ブラジルから、今着いたのか?」
「うん、みんなを探してたらちょうど日向くんがいるのが見えたから、ついてきたんだ」
「来るなら来るって、言っといてくれよな。びっくりするだろ」
 あっという間に翼のまわりに人の輪ができた。
「――し、し、試合には絶対に出さんからなっ!」
 その輪の外側で、わなわなと拳を震わせていたのは日向だった。翼は顔を上げるとまっ すぐに向き直り、笑顔を見せる。
「当たり前だよ、日向くん。オレ、応援に来たんだもん」
「本当だな……」
 猛虎の声がぐーっと低まる。
「絶対に絶対だな…」
「うん!」
 そこで元気いっぱいガッツポーズを作ったりするから、信用してもらえないのだが。
「はーい、そのまま止まって……笑ってくれるぅ?」
 その状況がわかっているのかいないのか、いたとしても気にしていないのか、東都新聞 社会部主任の反町女史は業務用のカメラを構えて派手にフラッシュを浴びせ掛けた。
「じゃ、行って来まーす!」
 見送りの人々に手を振って、高校生たちは元気に出国ゲートへと降りて行く。
「一樹!」
 エスカレーターの上から声が追ってきた。見上げると、苦笑を浮かべた顔が覗いてい る。
「なに?」
「悪いコトは、するんじゃないわよ!」
 答える代わりに反町はVサインでそれに応じた。
「心配してくれてんのか、期待されてるのか、どっちなんだろー」
「信用ないだけだろ」
 その肩を隣で松山が小突く。列の前にいた翼が、ちょっと足を止めて反町を振り返っ た。
「反町くんて、お母さん似だったんだね。お父さんは顔あまり似てないな、って思ったん だ、あの時」
「そうか?」
 反町はにやっと笑った。
「そうかもな」
 それは誰が見たってそうだ、と言いかけて松山は口をつぐんだ。言うまでもない、と言 おうとしてやめたのは、反町のその笑顔に何か引っ掛かったからか。
 いや、ただの直感だったのだが。










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