2章ー1






第2章
空白の代償












 インドネシアの首都ジャカルタ。東南アジア有数の近代都市の一つである。ほぼ赤道直 下にあって、当然気候は高温多湿、晩秋の日本から飛んで来た選手たちは一気に季節を半 年分もさかのぼることになった。
 猛暑、と言ってはいけないのだろう。ここではこれが標準であるし、その気温も日本の 真夏の蒸し暑さと比べればトントンだ。むしろ問題は陽射しだった。頭上から容赦なく照 りつける太陽光線は、石崎の表現を借りるなら『体じゅうにジャブを受けてるみたいな』 熱さであり、当然、日中の練習は見送られた。到着の翌日はもっぱら暑さへの順応にのみ 当てられたと言ってよいだろう。
「でっか〜い!」
 木陰を選んでランニングするうちに、列の先頭から声が上がった。スナヤン競技場が木 立ちの間からぬっと聳え立っていたのだ。
 ジャカルタのほぼ中心部に位置するこの競技場一帯は緑濃い広大な公園エリアになって おり、他にもバドミントン、テニス、水泳、ゴルフなど、さまざまな施設が集まる一大ス ポーツセンターである。そのメインとも言えるこの国立のスタジアムは収容人員10万数 千人、もちろんアジア最大の規模を誇っている。
「それよか、こんな都会の真ん中にこんな場所があるってのがスゴイよな」
「うらやましー」
 国際的な実力のレベルはともあれ、サッカーへの熱の入れ方に格段の差があることを、 施設を見て思い知らされてしまう。ちなみにインドネシアの代表チームの合宿所もこの敷 地内にあるのだが。
「ねえ、日向くん」
「……」
 日向はあまり機嫌が良くなかった。ホテルで休んでいるように言ったはずの翼が、見学 と称してしっかりついて来てしまったからである。
「試合って、ここであるの?」
「そうだ」
 休憩はやはり木陰に入るしかない。本番の試合が日中にあったら大変なことになりそう だ。もっとも86年のメキシコW杯ではスポンサーの関係でその大変なことが実行され て、参加各国から大いに不評を買ったのだったが、今回の最終予選は夕方陽が落ちてから のキックオフにされている。
「やっぱりそうか。今、石崎くんたちが下見だとか言って覗きに行っちゃったから」
「なにぃ?」
 日向は怒り狂ったが、まあ手遅れといえば手遅れだった。石崎たちはほどなくコーチに 連行されて戻って来たからである。
「なんかさぁ、警察だか機動隊だかいろいろいてさ、中を見せてくれねえんだぜ、ケチだ よなあ」
「来週ここで試合するチームです、って言ったのにさ」
 反省の意識はまったくないようだ。
「――テロだって」
 ホテルに戻ると、反町はさっそくコーチから情報を仕入れてきた。
「ここんとこ、市内のあちこちで爆弾テロとか暴動の未遂が続いてて、ああいう大きな施 設は特に警戒が厳しいんだってさ」
「うー、バテたぜー!」
 それには答えず、松山はベッドにどすんと身を投げ出した。
「困ったな、ここのメシ。うますぎる。太っちまいそうだぜ、試合までに」
「あれだけ走り回って、あれだけ食って、どこがバテてるってゆーわけ? 一番元気だっ たくせに」
 反町は荷物をずるずる引きずって、ベッドサイドまでやって来た。早田と部屋を替わっ てもらったのだ。一応、人目というものを考えるとやむを得ないところだろう。
「第一、あの家で暮らしてて舌が肥えたんじゃなかったの? そういうのは寮の食生活を 知らないヤツに言ってほしくないね」
 約10日間の滞在になる。着替えなど身の回りの荷物をクロゼットやチェストに移しな がら、反町はちらっと時計を見た。そろそろかな、と思ったのと同時だった。
「お…」
 部屋の電話が鳴った。松山はベッドカバーの上で大の字になったまま反町を見やる。
「もー、無精者!」
 出ると案の定英語が聞こえてきた。フロントからである。反町は短く返事をして、受話 器をぬっと差し出した。
「ほらよ、トーキョーから、マツヤマに、だって。おやすみコールだよ、淳からの」
「よっと!」
 面倒くさそうに、そのくせ目を輝かせて松山は起き上がった。回線切り替えの間、じり じりしているのがはた目にも丸わかりだ。反町はちょっと肩をすくめて荷物整理に戻っ た。
「ああ、平気だって。…うん、食わねえよ、そんなもん。暑いのは暑いけどな、練習はま だ体ほぐした程度だし」
 単身赴任のダンナのノリだな、と反町はそちらには背を向けたまま心の中でツッコミを 入れてノートパソコンを取り出した。それからきょろきょろと部屋の中を見回す。ビジネ ス客仕様なのか、なるほど客室内にもOAポイントが設置されていた。
「ははーん、淳のやつ、宿舎選びにも手を回したな。こーゆー設備があるかないかで決め たんだ」
 その背をとんとんと指がノックする。なに?と振り返った反町に、松山が通話を続けな がら手招きをした。
「資料を送るらしい。すぐに見られるか、だって」
「いつでもいいよー」
 反町はこちらでうなづくが…。
「…ああ、わかった、おまえもな」
 松山は切り際にまだ粘っていた。
「いいか、少しは休むんだぞ。無理したら許さねえからな」
「あーあ、淳がうらやましいよな」
 ようやく電話を終えて振り返った松山に、反町はちらりと横目を使った。
「ここまで心配してくれる相手なんて、俺には一人もいないんだもんね。夜も寝られずに 労働し続けてるのに」
 松山は一瞬目を丸くして反町を見返したが、すぐに胸を張った。
「そーとも、うらやましいだろう」
 苦情を言う相手が間違っていたらしい。










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