2章ー2















「日向さんっ! ま、待ってください…!」
 悲鳴のようなタケシの声がドア越しに聞こえた。乱暴な足音が廊下を過ぎ、彼らの部屋 の隣で止まる。
「――翼か」
 松山と反町は目でうなづき合った。すぐに部屋を飛び出す。
「おい!」
 隣は翼とタケシの部屋だった。厳密に言えば今回は飛び込み参加の翼だったが、三杉が 遅れて一人分空いていた部屋を、監督の許可を得てとりあえず使っていたのだ。
「これは何だ、翼」
 日向の声は思い切り煮詰まっていた。翼は目の前に紙を付き付けられてただきょとんと しているばかりである。
「日本代表チーム宛に届いた、って、さっきフロントで渡されたぞ――この手紙」
 入り口でその会話に立ち往生していたタケシに目で合図しておいて、松山は部屋に滑り 込んだ。反町もそれに続く。
「――手紙?」
「ああ、そうだ」
 日向は不機嫌そうにその便箋を自分のほうに向け直した。
「『ツバサ・オオゾラは我々が預かっている。彼の身の安全を保証したくば、以下の指示 通りにすること――』」
「えー、脅迫状…!?」
 思わず声を上げてしまった反町を、日向は振り返ってじろりと睨みつけた。
「そうだ。しかも書いてあることはデタラメだ。どういうことなんだ、一体」
「確かに。大前提が間違ってます。翼はここにいるんだから」
「……ひ、えっ」
 日向の手にある手紙を覗き込もうとしていた反町が、びくっとすくみ上がった。肩に掛 けられた手がしっかりと彼を捉えていたのだ。そう、何の物音も気配もないまま。
「驚いていないようだな、翼」
 そんな反町には構わず、若島津は淡々と言葉を続けた。
「おまえには何か心当たりがあるってことか」
「…うん」
 まだ半分ぽかんとしたまま翼はうなづいた。
「チームに同行してるように俺に言ったの、岬くんなんだ」
「なるほど」
 その名が出ただけですべてが納得できたというように若島津がうなづいた。日向さえ顔 色が変わる。
「岬だ? まだリハビリ途中のおまえに、無理にこんな大移動までさせたのか、あいつ は!」
「それくらい重大な意味があったってことですよ、日向さん」
 若島津はその大きな手で反町をがっちり捕まえたまま、その肩越しに話を続けた。松山 は気の毒そうに横目で見やる。まあ普段の心掛けの差、といったところだろう。
「どうやらこいつらも一枚かんでるようですし。なあ、反町」
「うう……」
 泣きベソの真似で対抗する反町であった。
「ははあ、なるほどな。まだこないだの続きをやってたのか、おまえらは」
 さすがに東邦の人間の恨みは深い。母校を戦場にされたのだから当然であるが。
「続きってわけじゃねえんだけどな」
「――光!」
 反町があわてて制止したが、松山は平気な顔であった。
「岬のプライベートは尊重してやりたいんだぜ、俺たちだって。けど、どうもあいつのほ うが俺たちと仲良くしたがってるらしくてよ」
「ほおぉ…」
 日向は目を細めて松山を見返した。
「おまえらが仲良くやるのは勝手だがな、それに翼や俺たちまで巻き込みたがるクセはな んとかしてもらおうか」
「え、俺は別に迷惑じゃないよ。応援、楽しみだし」
 翼に混ぜかえす気はなかったのだが、せっかく凄味をきかせたところで日向は一気に脱 力してしまった。若島津がその続きを引き取る。
「翼、岬はおまえにどんな話をしたんだ。つまり、そこまでしてブラジルを出なきゃなら ん理由を」
「それは…」
 翼はちょっと困った顔で若島津を見上げた。
「俺、岬くんがオリンピックに出ないつもりだったらどうしようって思ってたとこだった から…。岬くん、約束してくれたんだ、俺がそうすれば後から必ず自分も行くからって」
「――?」
「そのほうが安心だから、って岬くんは」
「なあ、翼?」
 おそるおそる反町が身を乗り出した。
「つまり、あいつはそういう脅迫状が来るような心当たりがあったってことか?」
「うん、そう」
 東京での事件の後、岬は結局オリンピック参加については保留という形でフランスに戻 ってしまった。翼の負傷もかなり彼にはショックだったらしい。それなら余計に安心させ ないと…と、三杉は説得したのだったが。
「岬はあの時の二の舞を避けようとしたってわけか」
 松山がうなづいた。
「サッカー選手を隠すにはサッカー選手の中に、って?」
「今度こそ翼にとばっちりが行かないように、俺たちに預けてきたんだな」
「……岬くんに、また、何かあったの?」
 翼にまっすぐ詰め寄られては、さすがの反町もシラを切り通せなくなった。助けを請う ように松山を振り返り、さらにおずおずと日向を見やる。
「また、って言われちまったぞ、反町」
「俺たちだってとんだとばっちりなんだい!」
 若島津に皮肉を言われて、反町はついに開き直った。
「あいつ、3日前、パリで誘拐されたらしいんだ。俺たち――淳も、今その裏付けをとる のに、ドタバタしてるとこなんだって!」
「……ゆ、うかい!?」
 翼が青ざめた。反町の腕をつかんで必死に揺する。
「どうして! 岬くん、まさか――危ない目に遭ってるんじゃ…!」
「い、いや、待てよ。話を聞けってば」
 誘拐と言う以上は既に危ない目に遭っていることに他ならないのだが、そう言って切り 返す余裕は反町にはなかった。
「とにかく手掛かりを探してるとこなんだ。淳も、なんとか無事に見つけられるようにパ リと連絡を取り合ってるし…」
「………」
 翼はいきなり反町を放すと、しょんぼりとうつむいた。
「岬くん、いつも絶対に言わないんだ、自分がどんなに危険なことしてても。それが俺の せいだったんなら、俺、どうしたら…」
「岬は約束したんだろ? 他でもないおまえと。なら約束を破るわけないって」
「――そう、かな」
 松山にそんなふうに言われるとそんな気になる翼であった。ずるい、と反町はふくれて いる。
「そうだな。それが岬の恐ろしいところでもある。が…」
 若島津はうなづいてからすっと反町に向き直った。反射的に身を引こうとした反町は、 背後から日向に押し返される。
「おまえらには一言、言っておいたほうがよさそうだ。こそこそ変な真似をするクセがつ いているようだしな」
「は、ははは。それはそれで、また、ゆっくりと…」
 反町が脂汗を流している間に、松山はさっきの「脅迫状」を手に取っていた。
「ふーん、しかしこの条件、どういうことなんだ? 『今日の公開練習と夜のレセプショ ンにミサキ選手を必ず出席させること。それを確認の上で次の試合についての指示を出す ――』」
「俺を人質にしてるつもりなんだね、本気で…」
 松山と翼で頭を寄せ合っている。
「本気で信じてるなら、とりあえず乗っておいたほうがいいんじゃないか?」
「試合って、本番の? それともその前にやるテストマッチ?」
「次の、となるとテストマッチのほうかな。これだけじゃわからんが」
「でも、どうするの、岬くんここにいないのに…」
 首をかしげた翼が、そこで思いついたように後ろを振り返った。日向がにやりとそれに 応じる。
「ああ、いるさ。岬なら、ここにちゃんとな」
「え、……えええ――っ!?」
 その場の全員の視線が自分に集まり出したのにあせって反町は後ずさりした。むろん、 逃げ場はない。
「確認って言うんだからすぐに手出しはしないさ。たぶんな」
「ならおまえがやりゃいいじゃん、岬の役!」
 しかし松山は動じない。
「練習やレセプションだけじゃすまないみたいだからな。試合となると――俺じゃ無理 だ。あいにくDFは層が薄くてな、俺が抜けるわけにはいかねえ」
 誰もが知っている通り、このチーム、FWは有り余っていたのであった。













『――ああ、文書で回答してきたよ。僕と顔を合わせる気はないらしい』
「ナンバーに該当する登録車両なし、か。なるほどね。とすれば、警察側としては君の身 を案じてのことかもしれないよ。君の社会的立場を考えれば、これ以上の関与は危険だと 伝えたいところだろう」
『ふん。わかっているとも。だがそんな配慮をしてもらうより、僕は事実を知りたいね。 こんなことで引き下がると思われては心外だ』
 フランス名門財閥の御曹司の発言としては過激としか言いようがなかった。美しくとも 獣は獣である。自分を長年にわたって振り回し手こずらせてきたライバルを思えば、こん な形で失うわけにはいかないのだ、という思いも確かに強かっただろう。
 警察を初めとする当局には既に圧力がかかっている。そのことこそが、その圧力の出所 を物語っていた。普通では手を出すことのできない領域があるのだと誇示するかのよう に。
『――ミサキは連れ去られる時、しかたがない、と言ったんだ。しかたがないような、そ んな状況にいた彼を、僕はもっと早くガードすべきだったんだ!』
「ピエール…」
 国際電話のこちら側で、三杉はその言葉を吟味した。
「岬くんは、こういう事態が起こりうると予測していたんだね。危険の大きさもおそらく 十分に承知していた。――それなら、彼のほうで何かしらの予防措置を講じていてもおか しくないと思うんだが」
『それは――』
 そうかもしれない。だが、岬の活動の詳細を誰が知ることができるだろう。岬は常に一 人で判断をし、一人で動いてきた。こちらから見れば、まさに密室状態である。
「でもあちらにしても、こういう手段をとることは危険だと承知もしているだろうに」
 誘拐という犯罪行為をも辞さない。警察にまで手を回して。
『E・S社の裏の事業については公然の秘密となっているが、マダム・ブルーについては 実態はつかみきれていないんだ。おそらく政府さえも。組織はどれくらいの規模でどこを 拠点にしているのか、それに組織の中心人物さえ特定できていないらしい。ミサキは、お そらくE・S社を通り越してマダム・ブルーの領域にまで手を届かせようとしていたんじ ゃないかな』
「それを阻止するために非常手段さえ取らざるを得なかった、と?」
『父も、同意見だ』
 揃う材料はどんどん重くなる一方だった。
「彼には誰か歯止めが必要なようだね、まったく」
『ツバサ、でも駄目なのか…?』
 エルシド・ピエール・ルノーは疲労感を滲ませていた。
『彼に止められないなら、僕たちにできるわけがない』
「そういうことだね」
 日本とフランスを遠く結んで、ため息が流れた。









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