2章ー3 







 





◆ 





「反町くん?」 
 ホテル裏の庭園は思った以上に奥行きがあった。早朝の静かな湿気を含んで、緑は様々  なトーンを見せながら今は息をひそめているようだ。太陽の強烈な輝きに支配される時間  はまだ少し先である。 
「――翼か」 
 不意を突かれて反町は目を丸くした。エレベーターホールの外にある庭を見下ろす広い  バルコニー。庭園の緑がスクリーンのように反射しているそこに、いきなり白い姿が現わ  れたのだ。 
「おはよう。散歩?」 
「ずいぶん早いな、おまえも」 
「時差ボケかな。変な時に目が覚めちゃったんだ」 
 翼はふふっと笑った。確かに日本からなら時差はたったの2時間、体内時計にさほど影  響はないが、地球の真後ろから飛んで来た翼にとってはインドネシア時間は昼夜逆転とい  うことになる。もっとも暑さについては季節が逆なのが幸いしているはずだ。 
「反町くんは? もしかして寝てないとか?」 
「ま、そんなとこかな。TVゲームやっててつい、な」 
「えっ、反町くんの部屋、そんなのあるの? いいなー」 
 翼は思いきりうらやましそうな顔をした。 
「貸してやるよ。あとで部屋に来な」 
「ほんと? ありがとう!」 
 嬉しそうに顔を輝かせて反町の隣に並ぶ。 
「でも反町くん、もっと別の夜遊びかと思ったよ、俺」 
「冗談。ここまで来て俺にできることなんてないさ。悪いコトは淳に任せてるんだ」 
「そう? 岬くんは君のことそうは言ってなかったけど」 
 翼はくすくすと笑った。 
「でも、昨日は大変だったよね。あの公開練習。ミニゲームなんてすごくなりきって。岬  くんっぽかったよ、ちゃんと」 
「おまえの太鼓判もらうのってコワイもんがあるな。けどおかげでマークはきつくなるし  削られまくりだし、泣きたかったよ」 
「本物の岬くんならできないことをこの機会にやっておこうって、みんな思ってたんじゃ  ない?」 
「……」 
 笑顔で言うようなことだろうか。反町はこの大空翼の真の恐ろしさというものをそこに  見た気がした。 
「でもな、そこまで忠実にあいつになりきらなくてもいいんじゃないかねー。いったんユ  ニフォームを着てフィールドに出てる俺たちを外見で判別できるほど、敵さんは岬を知っ  てるとは思えないんだよな」 
「反町くん…?」 
「おまえを『誘拐』した犯人、おまえ知ってるんだろ?」 
 翼は小さく息を飲んだ。大きな黒い目がまっすぐ反町を見ている。 
「世界広しと言えど、岬が警戒している中で大空翼を誘拐してみせるようなヤツはいやし  ないさ。当の岬以外には」 
 反町は手を伸ばして翼の肩を小突き、にやりと笑ってみせた。 
「ま、おまえは黙ってあいつの言う通りにしただけだろうけどな。そいつを脅迫状にまで  持ち込んだのはもちろんあいつの仕業だ」 
「でも…」 
 翼はまだ事情がわからない様子だった。 
「いずれおまえは狙われる。その前に自分が隠しておこうとしただけじゃなく、『誘拐』  をでっち上げた。しかもそれを、偽の情報としてどこか危なげなところに流したんだろう  な。それを信じて脅迫状をよこしたのは、おそらく岬が邪魔だと思ってる連中だ」 
 翼を人質に取ったからあとはそちらで岬を脅せ、という指令でも出たのだろう。自分の  敵の仲間内の情報を岬は先回りして操作したことになる。 
「地球のあっちやこっちに自分がいるように見せるにもいい時間稼ぎだよな。まあ、あい  つ自身は結局連れ去られちまったけど」 
「俺の、代わりに…?」 
 翼の顔色が変わる。 
「結果的にはそうなっちまったけど。どうかな。自分が思い切り動けるように準備したの  かも」 
「俺が足手まといになりそうだったってわけ、岬くんには?」 
「あー、違う違う、そういう意味じゃなく…」 
 うなだれた翼にあわてて反町は手を振り回した。翼はぱっと顔を上げ、反町の服を力い  っぱいつかむ。 
「ね、俺もみんなみたいに八つ当たりしていい、『岬くん』?」 
「…えっ?」 
 思わず固まる反町だった。その両肩に手を乗せ、翼はまっすぐに顔を合わせる。 
「岬くんに、どうしても一度言っておきたかったんだ」 
「あ……うん」 
 うなづきかけた反町を、翼はいきなり伸び上がって引き寄せた。 
「み、さ、き、くんの…バカ〜っ!!」 
「〜〜〜〜」 
 確かにみごとな八つ当たりだった。反町はそばのベンチにへたり込む。翼はさらにその  前に厳しい顔で立った。 
「岬くん、どうしていつもそんなに一人でいようとするの? 誰のためにも動かない、誰  の世話にもならない、なんて。岬くんは他人をじゃなくて自分を突き放し過ぎだ。どうし  てなのか教えてよ! 俺は、一緒にいたいんだ、一緒にサッカーしようよ、俺と、みんな  と! 岬くん、お願いだから…」 
「翼……」 
 悲鳴のようだった言葉がやがて途切れ、反町は下から翼をつかまえた。 
「わかった、おまえのその言葉はきっと岬に伝えてやるよ。今度こそおまえにそんな思い  させないように。だから泣くな、なっ?」 
「…泣いてなんていないよ、俺!」 
 ぷるんと頭を一振りして翼は顔を上げた。そのまま反町の腕を取る。 
「さあ、岬くん、ボール持って朝練行こう、ね?」 
「な、なに言ってんだ、おまえは…」 
 反町はあたふたと翼を引き剥がそうとした。 
「ケガ人を連れ回したなんてことが日向さんに聞こえてみろ、俺の寿命が縮むって。日向  さんたらムキになってるしさ」
 その名前を聞いて、翼は一瞬だけ目をみはった。それから小さく笑みを見せる。 
「あれはね、仕方ないんだ。日向くんには俺の一番ボロボロのとこ見せちゃったものね。  岬くんや三杉くんにはとても見せられないくらいの」 
「翼――?」 
 クーデター事件に巻き込まれて大怪我を負った翼は、ブラジルに戻ったところで日向を  呼び寄せた。わざわざ指名して、である。その理由がそんなところにあったとは、反町も  思っていなかったのだ。 
「日向さんになら、いいのか」 
 反町が思い浮かべたのはいつかの夏の青空だった。死闘と呼ばれたあの試合。まさにボ  ロボロの状態で分け合った優勝旗を、反町も同じフィールドで見たのだから。 
「岬くんなら、俺と一緒にいなくっちゃ」 
 翼はそれには答えず、にこっと笑顔を見せた。 








◆ 





『おはよう、光。よく眠れたかい?』
「ああ、俺のほうは遠慮なく。一樹のやつは完徹だったみたいだけどな」
『昨日は岬くんになって活躍しておいて、さらに完徹だって? タフだねえ』
 脅迫状のことはもちろん三杉にも伝えてある。その対処法も含めて。
『で、その一樹はそこにいるかな。話があるんだ』
「いや、俺が起きた時にはいなかった。そこらを散歩でもしてるんじゃないのか?」
 朝の国際電話。ジャカルタはまだ朝食前の時間だった。三杉もまた、夜を徹して捜索作 業をしていたに違いない。
『少々苦情を言ってやらないと』
「どうかしたのか?」
『僕と彼で共用にしているファイルがあるんだ。物置代わりに。ところが昨夜、そこで探 し物をしていて見つけてしまったんだよ、一樹の秘密の作業の跡を』
 松山にも理解できる範囲で三杉は説明を続けた。
『――僕も迂闊だったよ。もっと追及しておくべきだったんだ、岬くんの依頼っていうの をね。岬くんが必要最小限のことしか明かさなかった、なんて話をうのみにしすぎた』
 反町の説明では、岬の指示でフランス内務省のとある場所に侵入して彼の研究に必要な 公文書を入手した、とのことだった。具体的に何に使うか、それさえも知らされずにやっ た作業だと。
『その侵入経路も含めて僕の前で再現してくれたからつい信用してしまったが、一つ、大 事なことを彼は黙っていたんだよ』
「大事な…?」
 三杉は憤慨を隠さなかった。もちろん、相手が松山だからに他ならないが。
『つまりね、その作業をしたのは実際は彼じゃなく、岬くん本人だったってことだよ』
「おいおい、岬がハッカー役に回ったってのか」
『そう、一樹の指導でね』
 岬はハッカーではない。彼が大学での自分の「研究」のために集める情報は、広く世界 を覆っているネットワークの中の、誰にでも公開されているものがほとんどである。いわ ゆるサーチャーとして、その中からいかに的確にピックアップし系統立てた分析をするか が問われるのだ。客観的な情報も、組み立て方一つで国家的機密文書にもなりうる。岬の 持つデータベースが各所で恐れられるのは、信じられないほどの膨大な量の情報に緻密な 分析を加えたそのデータの蓄積が持つ価値ゆえだった。
 その全貌を知るのはもちろん岬本人だけであるが、その総情報量はおそらくパリ大学全 体のそれに匹敵する――または上回る――に違いない。さらにそれが『非公開』の情報源 をも含んでいることも考え合わせると、もはや無敵ということになる。
「とんでもねえ協力体制だな」
『岬くんは前回帰国した時に、一樹のあの腕を目の当たりにしてしまったからね。そうい う意味で見込まれてしまったということなんだろうが…』
「だからってよ、弟子入りまですることはねえよな、ハッカーになんて」
『本気でハッカーになりたいわけじゃないとは思うけれどね』
 三杉の苦笑が伝わってきた。
『そこまでせざるをえないほどの強敵だってことだよ、今回の相手は。自分一人では歯が 立たない、と判断したんだね』
「二人がかりか。でもよ、東京とフランスと離れてて、そんな複雑な作業が共同でできち まうもんなのか?」
『可能だよ。ネット回線がある限りね』
 三杉は松山にもわかるように言葉を選んで説明を始めた。
『インターネットは今や世界中を結んでいる。誰でも通り抜けられるルートで結ばれた公 開の情報のネットワークだ。だが、岬くんにはそれだけじゃ不十分なんだよね。インター ネット上では見えない場所、非公開の場所まで網羅して始めて彼の活動が成り立ってい る。一樹のなじんでいる場所と、まさにかぶっているんだ』
「困った奴らだな。今さらだけど」
 松山にも、二人の厄介さだけはよく判る。身近にいればなおさらだ。
『インターネットはつまり誰でも利用できる鉄道みたいなものだから、切符を買ったら駅 で改札を通って目的の列車に乗って希望の行き先に行ける。誰にとがめられることもな い。駅で言えばホームや待合室やコンコースやショッピングエリアみたいな場所だね。で も、一樹は切符を持っていても入って行けない場所、立ち入り禁止の場所へもどんどん入 って行ってしまうんだ。裏口だって関係者以外立ち入り禁止の区域もお構いなしに。彼に とって抜け道は実はいくらでもある。切符を偽造したり、駅員になりすましたり、合鍵を 用意したり――彼はそういう手段と技術を熟知していて、さらにそれを利用して自分専用 の新しい抜け道まで作ってしまう。鉄道を次々に乗り継いで、鉄道会社が違っても、国内 でも国外でも自由自在に。無限にどこまでだって』
「やれやれ」
 松山もさすがにため息をつく。
「それだけのことをどうやって覚えたんだ、あいつは」
『まったくね』
 三杉は思い出す。ずいぶん前に、反町のハッカーとしての腕を知った時に尋ねてみたこ とがあるのだ。
――子供の時さ。俺、遊び相手はビデオとコンピュータだけだったんだ。
 当の本人はあっさりとそんなふうに答えたのだったが、さてさてどういう少年時代だっ たのやら。
「岬とは、そういう抜け道を使ってこそこそと連絡が取れるってことなんだな」
『ああ、実際にコンピュータネットワークは鉄道網と違って常に変動している。昨日あっ た路線が今日は全然別の所を通っていたり、閉鎖になったり新たに増えたり、名前を変え たり、生き物のように変化し続けてるからね、隠れるには逆に好都合と言えるかな。誰に 気づかれることなく連絡を取り合って、ある意味では直接会っているのと変わりない状況 かもしれない。共同作業くらい簡単なことなんだろう、彼らには』
「どっかの駅の、どっかのホームで待ち合わせて…、あいつら、何をやってたんだ」
『それをぜひとも知りたいんだよ。こうなった以上は』
 岬が消えた今、手がかりはそこにしかない。
 松山は部屋のデスクに置かれたノートパソコンに視線を投げて顔をしかめた。
「あの時、もっと締め上げときゃよかったな。シラを切り通してたなんてな」
『本当にね。岬くんに口止めされていたにしろ、僕たちに黙っていたのは許せないね』
 二人はそれぞれに受話器の前で黙り込んだ。反町のハッカーとしての腕は認める。しか しそれを使うのはあの人格だ。きっと本音というものを生まれた時にゆりかごかどこかに 置き忘れてきたに違いない。
「岬の痕跡、か。一樹と一緒に何をやってたのか知らないが、問題はその先だよな」
『一樹に聞こう。それしかない』
 しかし、その頃、その手段さえも断たれようとしていたのだった。








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