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「反町くん?」
ホテル裏の庭園は思った以上に奥行きがあった。早朝の静かな湿気を含んで、緑は様々
なトーンを見せながら今は息をひそめているようだ。太陽の強烈な輝きに支配される時間
はまだ少し先である。
「――翼か」
不意を突かれて反町は目を丸くした。エレベーターホールの外にある庭を見下ろす広い
バルコニー。庭園の緑がスクリーンのように反射しているそこに、いきなり白い姿が現わ
れたのだ。
「おはよう。散歩?」
「ずいぶん早いな、おまえも」
「時差ボケかな。変な時に目が覚めちゃったんだ」
翼はふふっと笑った。確かに日本からなら時差はたったの2時間、体内時計にさほど影
響はないが、地球の真後ろから飛んで来た翼にとってはインドネシア時間は昼夜逆転とい
うことになる。もっとも暑さについては季節が逆なのが幸いしているはずだ。
「反町くんは? もしかして寝てないとか?」
「ま、そんなとこかな。TVゲームやっててつい、な」
「えっ、反町くんの部屋、そんなのあるの? いいなー」
翼は思いきりうらやましそうな顔をした。
「貸してやるよ。あとで部屋に来な」
「ほんと? ありがとう!」
嬉しそうに顔を輝かせて反町の隣に並ぶ。
「でも反町くん、もっと別の夜遊びかと思ったよ、俺」
「冗談。ここまで来て俺にできることなんてないさ。悪いコトは淳に任せてるんだ」
「そう? 岬くんは君のことそうは言ってなかったけど」
翼はくすくすと笑った。
「でも、昨日は大変だったよね。あの公開練習。ミニゲームなんてすごくなりきって。岬
くんっぽかったよ、ちゃんと」
「おまえの太鼓判もらうのってコワイもんがあるな。けどおかげでマークはきつくなるし
削られまくりだし、泣きたかったよ」
「本物の岬くんならできないことをこの機会にやっておこうって、みんな思ってたんじゃ
ない?」
「……」
笑顔で言うようなことだろうか。反町はこの大空翼の真の恐ろしさというものをそこに
見た気がした。
「でもな、そこまで忠実にあいつになりきらなくてもいいんじゃないかねー。いったんユ
ニフォームを着てフィールドに出てる俺たちを外見で判別できるほど、敵さんは岬を知っ
てるとは思えないんだよな」
「反町くん…?」
「おまえを『誘拐』した犯人、おまえ知ってるんだろ?」
翼は小さく息を飲んだ。大きな黒い目がまっすぐ反町を見ている。
「世界広しと言えど、岬が警戒している中で大空翼を誘拐してみせるようなヤツはいやし
ないさ。当の岬以外には」
反町は手を伸ばして翼の肩を小突き、にやりと笑ってみせた。
「ま、おまえは黙ってあいつの言う通りにしただけだろうけどな。そいつを脅迫状にまで
持ち込んだのはもちろんあいつの仕業だ」
「でも…」
翼はまだ事情がわからない様子だった。
「いずれおまえは狙われる。その前に自分が隠しておこうとしただけじゃなく、『誘拐』
をでっち上げた。しかもそれを、偽の情報としてどこか危なげなところに流したんだろう
な。それを信じて脅迫状をよこしたのは、おそらく岬が邪魔だと思ってる連中だ」
翼を人質に取ったからあとはそちらで岬を脅せ、という指令でも出たのだろう。自分の
敵の仲間内の情報を岬は先回りして操作したことになる。
「地球のあっちやこっちに自分がいるように見せるにもいい時間稼ぎだよな。まあ、あい
つ自身は結局連れ去られちまったけど」
「俺の、代わりに…?」
翼の顔色が変わる。
「結果的にはそうなっちまったけど。どうかな。自分が思い切り動けるように準備したの
かも」
「俺が足手まといになりそうだったってわけ、岬くんには?」
「あー、違う違う、そういう意味じゃなく…」
うなだれた翼にあわてて反町は手を振り回した。翼はぱっと顔を上げ、反町の服を力い
っぱいつかむ。
「ね、俺もみんなみたいに八つ当たりしていい、『岬くん』?」
「…えっ?」
思わず固まる反町だった。その両肩に手を乗せ、翼はまっすぐに顔を合わせる。
「岬くんに、どうしても一度言っておきたかったんだ」
「あ……うん」
うなづきかけた反町を、翼はいきなり伸び上がって引き寄せた。
「み、さ、き、くんの…バカ〜っ!!」
「〜〜〜〜」
確かにみごとな八つ当たりだった。反町はそばのベンチにへたり込む。翼はさらにその
前に厳しい顔で立った。
「岬くん、どうしていつもそんなに一人でいようとするの? 誰のためにも動かない、誰
の世話にもならない、なんて。岬くんは他人をじゃなくて自分を突き放し過ぎだ。どうし
てなのか教えてよ! 俺は、一緒にいたいんだ、一緒にサッカーしようよ、俺と、みんな
と! 岬くん、お願いだから…」
「翼……」
悲鳴のようだった言葉がやがて途切れ、反町は下から翼をつかまえた。
「わかった、おまえのその言葉はきっと岬に伝えてやるよ。今度こそおまえにそんな思い
させないように。だから泣くな、なっ?」
「…泣いてなんていないよ、俺!」
ぷるんと頭を一振りして翼は顔を上げた。そのまま反町の腕を取る。
「さあ、岬くん、ボール持って朝練行こう、ね?」
「な、なに言ってんだ、おまえは…」
反町はあたふたと翼を引き剥がそうとした。
「ケガ人を連れ回したなんてことが日向さんに聞こえてみろ、俺の寿命が縮むって。日向
さんたらムキになってるしさ」
その名前を聞いて、翼は一瞬だけ目をみはった。それから小さく笑みを見せる。
「あれはね、仕方ないんだ。日向くんには俺の一番ボロボロのとこ見せちゃったものね。
岬くんや三杉くんにはとても見せられないくらいの」
「翼――?」
クーデター事件に巻き込まれて大怪我を負った翼は、ブラジルに戻ったところで日向を
呼び寄せた。わざわざ指名して、である。その理由がそんなところにあったとは、反町も
思っていなかったのだ。
「日向さんになら、いいのか」
反町が思い浮かべたのはいつかの夏の青空だった。死闘と呼ばれたあの試合。まさにボ
ロボロの状態で分け合った優勝旗を、反町も同じフィールドで見たのだから。
「岬くんなら、俺と一緒にいなくっちゃ」
翼はそれには答えず、にこっと笑顔を見せた。
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