3章ー1 





第3章 座 標


 





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 壁に造りつけられたマントルピースの上に、ガラスドームの置時計が時を刻んでいた。 鏡が、背後からその響きを二重映しにしている。
 岬は目を覚ましてからしばらく、その不快感の原因が何であるか思い出せないまま天井 を見つめていた。 
「――そうだ、三杉くんだ」 
 夢で見た光景がいびつな渦を巻きながらやがて焦点を結ぶ。
 ――遠くから彼をとらえていた三杉の眼差し。揺るがず、まっすぐこちらを見つめなが ら、三杉は何か訴えるように口を開いた。だが声は届かない。理由のない苛立ちがじわじ わと湧き上がる。 
「ああ――」 
 コトリ、と小さな音が響き、岬は顔をドアに向けた。アンティークなワゴンを押して、 白髪の男がそこに立っている。
「ご気分はいかがでございますか?」 
「……悪い」 
 岬はおっくうそうにベッドから身を起こした。確か昨夜、この部屋に岬を案内して来た 男だ。だが記憶はあいまいだった。夢と現実が混乱したまま重くまとわりつくばかりであ る。 
「何かクスリ飲ませたんだね?」 
「はい」 
 執事は穏やかに、しかし何の感情も見せない口調で答えた。 
「よくお体を休めていただけるように、と」 
「ボクはね、睡眠時間が短いのに慣れてるんだ。休み過ぎると体調を崩すよ」
「――コーヒーを、どうぞ」 
 岬の皮肉には応じず、執事はポットからコーヒーを注いだ。その一点にだけポッと温も りが灯り、高い香りが立ちのぼる。岬はカップをじっと見つめ、それから執事にまっすぐ 視線を向けた。 
「ここはどこ?」
 執事はゆっくりと顔をこちらに向けた。だが口は開かない。岬は続ける。 
「E・S社の本社ビルには思えないし、まさか社長の自宅?」 
「奥様がお住まいの別邸にございます」 
 簡単に、執事はそれだけ答えた。岬は少し考え、そしてまた問いかける。 
「社長夫人の? なら、僕をここに呼んだのはどういうわけ?」 
「当主は留守にしておりますので、後日詳しいお話があるかと存じます。それまでどうか こちらでごゆっくりなさってくださいませ」 
「だから、ゆっくりなんてしていたくないって言ってるんだ、ボクは!」 
「……では、そのように主に申し伝えます」 
 執事は軽く一礼して部屋を出て行った。サイドテーブルに残されたコーヒー盆を睨みつ け、岬はいきなりベッドから滑り降りる。執事が消えて行ったドアに走り寄ったが、やは り鍵がかけられていた。 
「……あ」
 腹立たしげにドアに背を押し付けた岬は、右手の窓に気がついた。白レースのカーテン 越しに大きなフランス窓が開け放たれ、石造りのバルコニーがその外に見えている。さら にその向こうには朝の光線に彩られた庭園が広がっていた。 
「どういうこと?」
 バルコニーにゆっくりと足を踏み出した岬は、まぶしそうに庭園を見渡した。岬のいる この部屋は古い城館の両翼に挟まれた一角に位置していて、幾何学模様に配置された刈り 込みの庭木を正面に見下ろす形になっている。その先は低い生垣に仕切られて噴水池が並 び、左手のほうには黒々とした常緑樹の列、右手のほうには背の高い生垣が続いていた。  「うっかり閉め忘れたってことはないよね…」 
 それなら、庭に出るのは自由、ってことだ。岬は勝手にそう解釈することに決めた。芝 生の苑路を進み、巨大化したチェス盤のような植え込みに沿って噴水の前までたどり着 く。ここまで来ても彼を咎めるような動きはまったく起こらなかった。 
「ここって、どこなんだろう」 
 庭を進みながら、岬はずっとそれを考えていた。大学近くで車に乗せられたのが夕方4 時頃。車内では目隠しをされていたがいくつかの手掛かりはあった。交差点、信号に止め られない高速走行はハイウェイを走っていたことを意味する。その後スピードは落ち、カ ーブの多い道をずいぶん長く走った。いわゆる市街の騒音はパリを出た後は耳に届くこと はなかったから、大きな都市は経由していない。もっともフランスは国土面積の大部分を 農地が占める農業国で、パリを一歩離れるとどこもかしこものどかな田園地帯だからこれ はあまり決め手にならないが。 
「それにしても大きな屋敷だな……」 
 振り返ってみて、改めて感心する。その多くが観光スポットとなっているシャトーあた りと比べれば「城」というイメージは少ないが、土地の領主の館としておそらくは百年以 上の歴史をくぐってきたのだろう。石造りの重厚な建築で、飾り破風に特徴のある両翼部 分と、さらにその奥にも棟が連なっている。
 しかし驚くべきはこの敷地の広大さだった。同じ高さ、同じ形に刈り込まれた樹木が等 間隔に植えられ、フランス古典様式のシンメトリーの美を創り上げている庭園。色とりど りに花の咲く箱庭のように仕上げた一画。その先は一転してイギリス風の自然庭園の造り で、小川が流れこんもりとした森へと続いている。 
「時代も様式もバラバラな庭園だな。あとはゴルフコースとジャグジー付きのプールでも あれば完璧に成り上がりセレブの楽園だけど」 
 どうやら果樹園らしい落葉樹の並木を過ぎた所で、岬は生垣に進路をさえぎられた。枝 と枝が隙間なく組み合わされた緑の壁が3メートル近い高さでずーっと続いている。それ に沿って玉砂利の道を歩いて行くうちに、屋敷の建物は木々の向こうにいつか見えなくな ってしまっていた。 
「……あ」
 生垣の途中にアーチ状にくり抜かれた場所があった。何の気なしにそこをくぐって、岬 は目を丸くする。いきなり視界が開けて、広い芝生の上に小さな東屋があったのだ。
 ツタの絡んだ白い梁の下に、女性が一人、気配に振り向いた。岬と目が合うと静かな微 笑を見せる。
「おはよう。昨夜いらしたお客様ね」
「――」
 これがこの館に住む女主人だろうか。岬は黙って相手の様子を観察した。年齢は40歳 前後。黒い髪にセピアの瞳、くっきりした目元はどこかエキゾチックな印象がある。柔ら かいシルエットの黒いドレスを着て、左手の指には金のリングが光っていた。
「朝食はまだなんでしょう? 一緒にいかがかしら」
 テーブルにはコーヒーのセットとパン籠、果物の皿などが並んでいる。
「いいえ。食欲がなくて」
「そう、残念ね。でもこちらに掛けてちょうだい」
 肩のショールをふわりと掛け直しながら女性は手で席を指し示した。
「ソルボンヌの有名人さんなんですって? お会いできるのを楽しみにしていたのよ。ま さかこんなに若い方だとは思わなかったけれど」
 岬はその言葉を不機嫌そうに無視して、立ったまま相手を見下ろした。
「その前に、ここはどこであなたが誰なのか、自己紹介をしてほしいですね。客とおっし ゃいますが、僕は招待された覚えはありません」
「そうだったかしら」
 岬の問いをあっさりと流してポットから自分のカップに新しいコーヒーを注ぐ。ミルク は使わずにストレートで口に運んだ。
「ここは退屈な所なのよ。ここには夫以外に訪ねて来てくれる人もいなくて。あなたには 色々とお話を聞かせていただきたいわ」
「僕は望んでここに来たわけじゃありません。もちろんあなたの話し相手をしに来たわけ でもないです。あなたがたもそれが目的ではないでしょう。ご用件をまず聞かせていただ けますか、社長夫人」
 夫人は岬のその厳しい視線にもやはり笑顔を崩すことはなかった。
「仕事の話は夫から聞いてちょうだい。私はとりあえずあなたを引き止めるのが役目な の」
「お断りします。…と言いたいところですけど。僕はそんなに暇じゃないですから」
「そう?」
 夫人はおかしそうに目を細めた。
「あなたを監禁するつもりはないの。その必要もないでしょう? この庭から出ない限り あなたは自由よ。好きに過ごしてもらって構わないわ」
「…自由に、ですか」
 岬は口元だけで笑った。
「僕にヴァカンスをくださるってわけですね。欲しくもないのに」
「手荒な招待になってしまったことはお詫びするわ。でもそれはあなたのせいでもあるの よ? どこにいるかを突き止めるだけでも大変な手間だったようだし、色々とイタズラも 仕掛けてくれていたし」
 夫人はカップを置いて顔を上げる。岬もその視線をしっかりと受け止めた。
「心当たりがありませんが」
「噂通りの人ね」
 夫人は表情を崩した。
「でも、私たち、もっと仲良くなれるかもしれないわ。とりあえず……」
 夫人は言葉の途中で少し考え込んだようだったがすぐに顔を上げて岬に微笑みかける。
「そう、とりあえず、お昼にディナーにいらして。うちの料理人はジビエが得意なの」
「……」
 嫌な女、と、岬は日本語でつぶやいたのであった。








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