4章ー2















 どちらかと言うとお兄さんたちよりはお姉さんたちがいい…と反町は思った。看病され るなら、である。
「あ、それ? もういいんじゃないかな、飲まなくても…」
 日本語で主張しても通らないようだった。昨日からずっと飲まされ続けている薬らしき 飲み物は、動けさえすれば逃げたいくらいの代物だったが、抵抗する前に無理やり口に入 れられてしまうのだ。やはりお兄さんたちは力が強い。アネカのお母さんもやたら力が強 い。
 夜が明けたと思った頃にはもう家族は動き出し、小さな子供たちは学校に行く様子だ。 お姉さんのうち2人も仕事らしい。お母さんは市場に行って一日の食料を買い込んでき た。お兄さんのうち半分くらいは出かけたようだが、時々家に戻ってくるところを見ると いわゆる勤め仕事ではなさそうだ、と反町は想像した。とにかく出たり入ったり、動きの 多い家だ。
「毎日、こうなのかな…」
 そうやって家を出たり戻ったりする家族たちが、例外なく反町の側に来て微笑みかけて いく。アネカのお母さんに具合を確認しているのだろうか、うなづきながら顔を曇らせた り、または笑顔になったり、その表情を見ていると不思議なくらい心から気にかけてくれ ているのがわかる。
「これであの薬さえ飲まされなかったらなあ」
 と思っているところへ、またやってきた。今度はアネカのお祖母さんである。
「アリ」
 またそれだ。名前を勝手につけちゃって。まだ名前を教えてないから便宜上名づけたの かと思ったら、どうやらこれはお祖母さんだけが使っている名前なのだった。
 薬のコップを口元に当てられて反町が思わず顔をしかめると、お祖母さんは厳しい顔に なって、
「アリ!」
と叱った。小さい子供をたしなめるような口調だった。そうなると従うしかなくなる。
 熱はなかなか引かず、熱っぽさと寒気が交互にやって来て反町を不安定な夢に漂わせ る。この妙な匂いと味の飲み物はなるほどその夢を確かな眠りに導いてくれるようだっ た。
 反町がまたうつらうつらし始めると、お祖母さんはそれを見て満足そうにうなづいた。
――おやすみ、アリ。
 夢の境界で、反町は歌を聞いた。アネカのお祖母さんが、ベッドの脇に座って何か手仕 事をしている。歌は子守唄のようだった。
「子守唄なんて、歌ってもらったことなかったなあ。親父と2人だけだったもんな、小さ い頃は…」
 言葉は違っても、国は違っても、子供はどこでも子供なのだ。
「オバアちゃん、誰か孫とでも勘違いしてんのかな。アリって誰だよ、ほんと――」
 反町は夢の中で歌に揺られながら、また深く眠りについた。
「ああ、ばあちゃんはね、もう、ちょっとボケてんのかも」
 昼過ぎに帰って来たアネカは苦笑して答えた。
「昔は丈夫で、外国に長いこと出稼ぎに行ったりもしてたんだけど、向こうで何か辛い目 にあったか何かがきっかけで、すっかり元気をなくしてしまったんだ。あんたが来て、ば あちゃんヤケに張り切って看病してるし、うちの者も逆に喜んでるくらいなんだ」
「でも、アリって名前は…」
「うちにも親戚にもいないよ。俺にもわからないけど。勝手に人違いしてんのかもな」
「でもぉ、俺――」
 反町は不満そうに口をとがらせる。
「へえ? 日本人だったんだ」
 アネカは目を丸くすると笑い出した。他の家族たちもめいめいに笑い合っている。反町 はきょとんとした。
「全員ハズレだったな。…ああ、ごめんごめん。君が外国人らしいってのはわかってたけ ど、どこの人かなあってみんなで予想してたんだ」
「そ、そう…?」
 家族の目がいっせいに自分に向いている。反町はなんだか申し訳ないような気分になっ た。期待を裏切った、というわけでは決してないのだが。
「母さんはマレーシアだろうって言ってたんだよね。あとはタイとかベトナムとか。それ にインドとかオーストラリアとか――」
 おいおい、脈絡がなさすぎ…と反町はぼやく。
「義兄さんはバスターミナルで働いてるから外国人も見慣れてて、一番正解に近かったか な」
「どこ?」
「フィリピン」
 それで一番近いとは。反町はがっくりと脱力する。
「いやあ、日本とは全然思わなかった。日本人ってビジネス街にいてスーツ着て、それに 色もずっと白いから」
 アネカはまだ笑っている。
「僕も仕事で日本語話せるよ。『アリガトウ』『サヨウナラ』――」
「え、アネカは仕事って何やってんの?」
「ベチャ引きだよ。ベチャって知ってる? 自転車で引いて、客を乗せるんだ」
 それなら朝市に行った時に見たかも、と反町は思い浮かべた。幌のついた昔の人力車み たいなのが自転車に繋がっていて、買い物帰りのおばさんたちが次々に乗って行ってたっ け。
「英語を使えるとね、けっこう観光客とかで実入りがいいんだ。でも最近、市の条例がど うのっていろいろ厳しくなって、乗り入れ禁止地域がどんどん増えててさ。そのうち全廃 するとか噂だけど、冗談じゃないよ!」
 アネカの表情がその時だけ厳しくなった。そこへ後ろからお姉さんが覗き込んでくる。 濡れタオルを換えに来たのだ。
「――」
 お姉さんはタオルを乗せながら何かを言い、にこっと微笑んだ。アネカが通訳する。
「そのピアス、珍しいね、だって。何の石か、訊いてるよ」
「ああ、これ? 石の名前とかは知らないな。小さい時からずっとつけてるんだけど、気 にしたことないし」
「ふーん、確かに珍しいね。光の角度で色が少しずつ変化してるみたいに見える…」
 アネカは指で触ってみて首を傾げた。次にお母さんが皿を持って来る。
「あ、そろそろ何か食べられるんじゃないか、って」
 アネカと場所を入れ替わって、お母さんが枕べりに座った。スプーンを口元に寄せて、
「ブブル」
と言う。反町は匂いを確かめてから口に入れた。
「なーんだ、オカユだ」
 味はちょっと形容しにくかったが、食感は日本のものとほぼ同じで安心した反町は、一 さじ分食べてお母さんを見た。もっと欲しいという顔はすぐに通じたようだ。全部食べ切 った反町を見て、アネカもうなづく。
「だいぶいいね。熱はまだ少しあるけど、この調子なら1週間もすれば歩けるよ」
「1週間!」
 反町は叫んだ。
「そんなに待てないよ! 早く戻らないと…」
「日本に?」
「――いや、仲間んとこ」
 言いかけて、一気に色々なことを思い出してしまった。
――岬は、あれからどうしたんだろう。それに翼。あいつ、あの時真っ青な顔してた。
「ねえ、ソリマチ」
 アネカが真面目な顔をして言った。
「気を悪くしないでくれよ。実は今朝、あんたが見つかった通りのあたりで仕事してた ら、警察がいたんだ。この辺で外国人の子供がうろうろしてるのを見かけなかったか、っ てそこらの連中に尋ねててね。訊いてたら、服装の特徴とかあんたに似てる気がして…」
「警察…?」
 反町は一瞬眉を寄せた。
「まだあんたに事情とか聞いてなかったし、それからでも遅くないと思ったからその時は 黙ってたんだけど…。まさか、あんた警察に追われてるとか、そういうのかい?」
「どっちかって言うと、逆のはずなんだけど…」
 答えながら反町は考え込んだ。市場から連れて行かれた先は高級ビジネス街の一角だっ た。逃げ出す時には余裕がなくて確認できなかったのが悔やまれるが、広い敷地を持つ白 亜の立派な建物で、どうみても官庁関係に見えた。そしてもう一つ、乗せられた高級車が 途中で一度検問のような所で停車した時、運転手の男が言葉を交わしていたのは確か警官 ではなかったか。
「でも、気を使ってくれてありがとう。警察は、今のとこ信用しないほうがよさそうなん だ」
「事情はよくわからないけど、警察が当てにならないのは確かだな。あいつら金持ちには ぺこぺこして、どうせ上役も下っぱもワイロで動いてるのさ。俺たちなんていつも雑魚扱 いだよ」
 アネカが渋い顔をして見せる。反町はうなづきながら別のほうに思いを巡らした。
「今頃、そうとも知らないで警察に届けてるかもしれないな、監督あたり。淳に、早いと こ事情を話しとかなくちゃ…」
「え?」
 日本語で独り言を言う反町に、アネカが不思議そうに聞き返す。
「アネカ、電話してくれない? ホテルに仲間がいるんだ」
「うーん、うちは電話ないからなあ。俺が直接ひとっ走りしてくるよ。ジャカルタのホテ ルならたいていわかる。大きなのならな」
「あ、ありがとう」
 アネカはにっと照れくさそうに笑って窓の外を指した。
「雨がやんだら、な」
 外はまた盛大なスコールだった。









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