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次の朝も、岬は庭に出た。
課題として与えられたデータ群に目を通し解析するのに一晩で足りるわけはない。ベッ
ドに横になってうとうとしたのは明け方の1時間ほどだった。
フランス式庭園から今日は反対に折れてみる。テラス状花壇の間をゆっくり上り切って
糸杉の門をくぐると、パリではまず味わうことのない湿った緑の匂いが空気を満たしてい
た。遊歩道が緩い下り坂となって続くその先に、柳が何本か身を寄せ合っている様子が岬
の目を引く。沼だ。
岬は水辺が好きだった。海より、大河より、こういう密やかに澱んだ水面のほうを彼は
好んだ。
柳は枝を水面へと低く垂らして、風が吹くたびに歪んだ波紋を広げる。沼は藻の色に濁
り、向こうの岸寄りの半分以上が睡蓮の葉に覆われていた。数は少ないが、花の鮮やかな
オレンジ色が葉の上に突き出してしんと静まっている。
沼の岸に立ってそんな光景を見ていると、今こうしてこんな所に自分がいること自体、
不思議な気分になる岬だった。故郷と呼べるものなどない、帰るべき所などない――そん
な自分が普段の生活から引き離されたところで、どんな意味があるというのだろう。実体
あるこの庭より、ネットワークの向こうの電気信号の中にむしろ自分の現実があるなんて
…。
風がその時、ひときわ強くザーッと吹き抜けた。こずえの朝露だろうか、その風にさら
われてぱらぱらっと岬の上に降りかかった。
――誰かが見てる…!
岬はぱっと背後を振り返った。緑の木々が揺れているばかりで、人影らしきものはどこ
にもない。音も、気配もなかった。
部屋に戻ると、そのタイミングをぴたりと計ったように熱く入れられたコーヒーのポッ
トが岬を待っていた。
「やれやれ…」
あとはフレッシュジュースにクネッケと果物。ここへ来て初めての朝食となった。フラ
ンス式スタンダードとは少し外れた組み合わせだったが、これがクロワッサンにカフェオ
レだろうと、アジの開きに豆腐とワカメの味噌汁だろうと、岬は関心を持たなかっただろ
う。ただ黙々と口に運ぶ。
「あれは挑発だ」
E・S社はこの人里離れた場所に岬を軟禁し、協力を迫った。つまりは岬の頭脳が欲し
いのだと。
「僕が言いなりになるわけないのを、連中は十分わかってる。わかっていながら泳がせる
気なんだ。僕がこれを千載一遇のチャンスだとして行動するだろうことを予測して、その
動きを監視しながら…」
まるで鵜飼いのウのようだ、と岬は自嘲的に思った。首に縄をつけられて魚を追う。飲
み込もうとしたところを鵜匠にぐいと引かれて魚は取り上げられるのだ――。
でもあの社長夫人は、その漁果たる魚よりもウのほうに価値があると言ってのけた。
じわじわと、獲物の苦しむさまを楽しむような目――。どこか得体の知れない残酷さが
その視線に秘められている。
「――君なら、どうアプローチする?」
パソコンに向き合い、岬は一人つぶやいた。
「パリにいるうちに見つかったのは痛かったよ。君を、結局巻き込むことになっちゃった
んだろうな。それに…」
思い浮かんだ顔は一人だけではなく、岬は不機嫌そうに頭を振ってそれを振り払った。
「まあ、そっちは自分たちでなんとかしといてもらうとして」
小さく息を吐いて、その瞬間に岬の表情が切り替わる。
「向こうの思う壺にはさせないさ。自由は奪われても、僕には君にもらった武器がある。
どんな武器商人も持っていない、強力なのがね」
岬は社長のメッセージをもう一度呼び出した。「課題」をより具体的に検討し始める。
必要な手順、そしてルート。それらは反町が用意した、反町自身の指先が示してくれるだ
ろう。
背後の尾行者はお構いなしに、岬は自分のやり方で先へ進もうとしていた。
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