4章ー3















 次の朝も、岬は庭に出た。
 課題として与えられたデータ群に目を通し解析するのに一晩で足りるわけはない。ベッ ドに横になってうとうとしたのは明け方の1時間ほどだった。
 フランス式庭園から今日は反対に折れてみる。テラス状花壇の間をゆっくり上り切って 糸杉の門をくぐると、パリではまず味わうことのない湿った緑の匂いが空気を満たしてい た。遊歩道が緩い下り坂となって続くその先に、柳が何本か身を寄せ合っている様子が岬 の目を引く。沼だ。
 岬は水辺が好きだった。海より、大河より、こういう密やかに澱んだ水面のほうを彼は 好んだ。
 柳は枝を水面へと低く垂らして、風が吹くたびに歪んだ波紋を広げる。沼は藻の色に濁 り、向こうの岸寄りの半分以上が睡蓮の葉に覆われていた。数は少ないが、花の鮮やかな オレンジ色が葉の上に突き出してしんと静まっている。
 沼の岸に立ってそんな光景を見ていると、今こうしてこんな所に自分がいること自体、 不思議な気分になる岬だった。故郷と呼べるものなどない、帰るべき所などない――そん な自分が普段の生活から引き離されたところで、どんな意味があるというのだろう。実体 あるこの庭より、ネットワークの向こうの電気信号の中にむしろ自分の現実があるなんて …。
 風がその時、ひときわ強くザーッと吹き抜けた。こずえの朝露だろうか、その風にさら われてぱらぱらっと岬の上に降りかかった。
――誰かが見てる…!
 岬はぱっと背後を振り返った。緑の木々が揺れているばかりで、人影らしきものはどこ にもない。音も、気配もなかった。
 部屋に戻ると、そのタイミングをぴたりと計ったように熱く入れられたコーヒーのポッ トが岬を待っていた。
「やれやれ…」
 あとはフレッシュジュースにクネッケと果物。ここへ来て初めての朝食となった。フラ ンス式スタンダードとは少し外れた組み合わせだったが、これがクロワッサンにカフェオ レだろうと、アジの開きに豆腐とワカメの味噌汁だろうと、岬は関心を持たなかっただろ う。ただ黙々と口に運ぶ。
「あれは挑発だ」
 E・S社はこの人里離れた場所に岬を軟禁し、協力を迫った。つまりは岬の頭脳が欲し いのだと。
「僕が言いなりになるわけないのを、連中は十分わかってる。わかっていながら泳がせる 気なんだ。僕がこれを千載一遇のチャンスだとして行動するだろうことを予測して、その 動きを監視しながら…」
 まるで鵜飼いのウのようだ、と岬は自嘲的に思った。首に縄をつけられて魚を追う。飲 み込もうとしたところを鵜匠にぐいと引かれて魚は取り上げられるのだ――。
 でもあの社長夫人は、その漁果たる魚よりもウのほうに価値があると言ってのけた。
 じわじわと、獲物の苦しむさまを楽しむような目――。どこか得体の知れない残酷さが その視線に秘められている。
「――君なら、どうアプローチする?」
 パソコンに向き合い、岬は一人つぶやいた。
「パリにいるうちに見つかったのは痛かったよ。君を、結局巻き込むことになっちゃった んだろうな。それに…」
 思い浮かんだ顔は一人だけではなく、岬は不機嫌そうに頭を振ってそれを振り払った。
「まあ、そっちは自分たちでなんとかしといてもらうとして」
 小さく息を吐いて、その瞬間に岬の表情が切り替わる。
「向こうの思う壺にはさせないさ。自由は奪われても、僕には君にもらった武器がある。 どんな武器商人も持っていない、強力なのがね」
 岬は社長のメッセージをもう一度呼び出した。「課題」をより具体的に検討し始める。 必要な手順、そしてルート。それらは反町が用意した、反町自身の指先が示してくれるだ ろう。
 背後の尾行者はお構いなしに、岬は自分のやり方で先へ進もうとしていた。












「ねえ、コーヒーのおじさん!」
 パソコンから目を離さずに岬は大きな声を出した。部屋にはもちろん誰もいない。物音 と言えば、プリンターがデータを読み込みながらカタカタと低く唸る音ばかりだ。
「ご用でございますか」
 どんな呼び方をされようと、まったく動じた風はない。執事は無表情なまま、目を伏せ てドアの前に立った。
「そんなに熱心に張り番をしてなくても、ボクは逃げやしないよ。それよりコーヒーをく れる? 朝のより、もう少し浅く炒ったのがボクの好みなんだけど」
「承知いたしました。こちらにお持ちしますか? それとも、お食事と一緒になさいます か?」
「なにそれ…」
 食事にコーヒーがついてくることはあっても、その逆というのはあまり聞かない話であ る。
「中庭で、奥様がお茶を召し上がってらっしゃいますので、そちらにお寄りになるのでし たらご案内いたしますが」
 岬の手が止まった。
「そう? じゃ、行くよ」
「どうぞ、こちらへ」
 柱ごとに絵画と鏡が並ぶ廊下を前日とは反対に進むと、突然緑の空間が目の前に開け た。南欧風の中庭(パティオ)だった。周囲を広間のガラスに囲まれたそこには、鉢植え にされた丈高の観葉植物やつる性の草花で縁取られた彫刻がそこかしこに置かれ、その中 に埋もれるようにして白い屋外テーブルがあった。
「食欲が出てきたようね」
「他に楽しみもないですから」
 ラタンのアームチェアに深くもたれて夫人は微笑んだ。
「楽しみにしてもらえて嬉しいわ。私もあなたとお話しするのを楽しみにしているのよ」
「それは期待しないほうがいいですね」
 岬は向かい側の席につくと、ナプキンを膝に置いた。
「昨日も言ったように、ボクはあなたたちの依頼に素直に応じるわけにはいかないんで す」
「あくまで対立姿勢は変えない、ってこと?」
 夫人はカップに紅茶を注ぎ足した。
「あなたはたぶん、私たちのような存在を『悪』ととらえてるんでしょうね。人殺しの道 具を開発しては商売としている、商売のために人殺しに加担している、ってね。そう、争 いのある所に武器は集まる。でも争いはいつも正義を唱えるわ。正義を唱えることが争い を生むと知っていながら。それなら『悪』と『正義』は同じものじゃないかしら」
「ボクは善悪の基準で糾弾するつもりはない。世界が動く仕組みを研究する中で、時には 外交戦略を、時には軍需産業を取り上げるだけです。その中であなたたちの会社と出会っ たのは偶然でしかない。善か悪かを裁くのではなく、現実を、事実をありのままに把握す るのが学問でしょう。ボクはそのためなら手段を選ばない。でも決して目的ではないんで す」
「あくまで研究だっていうわけね」
 岬に次の皿が給仕される間、夫人はやや目を伏せて両手指を組み合わせていた。
「学者は理論を語るわね。理論は彼らにとって理想と同義語になっているわ。現実の、あ るがままをとらえているとは思えない…」
「ボクが、そうだと?」
 鱒のローストにナイフを入れながら、岬は素っ気なく相槌を打った。
「あなたの若さを責めないわ。むしろその若さの分だけあなたは棘を持っている。理想の 陰にあるものに知っている。純粋さは何より残酷な武器になるのよ」
「ボクは丸腰ですよ。武器なんてありません。必要だとも思わない。でも、戦わねばなら ない。事実を知ることは真実を知ることと同じじゃないですからね」
 確かに岬の食欲は旺盛だった。まるで敵に挑むかのように次々と皿を空けていく。
「今日は、ワインは?」
「ボルドーをいただきます。アントール・デュ・メールかな」
 敢えて、である。
「あまり眠ってないようだけど、辛口は体にダメージになるんじゃなくて?」
「こういう体調が、ボクのベストですよ」
 グラスを挙げてゆっくりと回す。さらさらとした透明さがグラスの縁に反射しながら香 りを高く漂わせた。
「招かれざる客にずいぶん寛大なんですね。これ、ヴィンテージ物ですよ」
「まあ、ご謙遜。ちゃんともてなし甲斐があるからこそ、執事も応えてるのよ」
「へえ、あの人がソムリエ役もやってるんですか。コーヒーだけかと思ってた」
 岬はグラスを置いた。背後を確かめるまでもなく、その当人はすぐ近くに控えているは ずだった。
「その年でよくそれだけの舌を持てたものね」
「ボルドーに、お節介な知人がいるんですよ。割り勘は絶対に許してくれなくてね。おか げでボクはすっかりたかる癖がつきました」
「そのようね」
 夫人はくすくすと笑った。
「そのお友達なら、確かにお節介ぶりを発揮しているわ。パリ警察がいろいろと気を遣っ てくれているのに、その配慮も無視してあちこち動いてるそうよ」
「やっぱり…」
 岬は憂鬱そうにため息をついた。
「そうなるんじゃないかと思ってたんだ」
「で、あなたは何才なの、岬」
 また正しい発音で、夫人は呼んだ。
「17才です」
「そう」
 夫人の目に微かな翳りが見えた。
「何にも縛られないように、何をも受け入れない。――あなたはいつもそんななの? た った一人で、わざとこんな所に飛び込むような無茶までして…」
 岬は耳を貸す様子はなかった。
「単に他のやり方を知らないだけかもしれませんよ」
「そんなことはないわ。あなたには妥協というものがない。貪欲さがない。――全てに醒 めたような顔をして、そのくせ必死に何かを守ろうとしている…」
「変じゃないですか?」
 岬は小さく笑い出した。
「誘拐したほうがされたほうを責めるなんて。ボクはとりあえずここでやるべき作業があ る。それだけなのに」
「そうね」
 夫人はふーっと息を吐いて微笑んだ。
「私にも覚えがあるのよ。あなたのことを知りたいと思ったのは、私とどこか似たところ を感じたからかもしれないわ」
 岬は露骨に嫌な顔をしてみせた。自分に似た人間が嫌い、というのはどうやら本当らし い。
「妥協はとりあえず身を守るには役立つわ。あなただってそれだけの才覚があれば、大学 なんかで研究しているより即戦力としてどんな企業にでも公的機関にでもポストは思いの ままでしょうに。名誉だって財産だっていくらでも手に入るはずよ」
「しつこいようですが、ボクの本職は学生です。だからこその研究でしょう。職業にする 気なんてないですよ」
「じゃ、サッカー?」
 いきなり問われて、岬はちらっと目を上げた。動揺している様子はない。
「あなたの経歴は当然調べさせてもらってるわ。2年前、世界選手権で優勝したジュニア ユースの日本代表チームにあなたはいたわね。そして来年のオリンピックへの代表チーム にも登録されている。――あなたを繋ぎ止めてるのは、愛国心かしら?」
「まさか」
 今度こそ岬は声を立てて笑った。
「国籍なんて――故郷なんてボクには何の意味もない。そんなもののためにサッカーをや るなんて、バカげてる。それにボクのことは言えないでしょう? E・S社はフランス政 府の国策企業として補助金を受けながら、EC外の第三国への技術提供を続けている。愛 国心で行動していないのは同じじゃないですか――そう、あなただって」
「私が…?」
「ええ」
 岬はゆっくりと相手の視線を受け止める。
 沈黙が、奇妙な居心地の悪さとなってテーブル越しに流れた。
「E・S社社長ロジェ・ル=ヴォワニー氏は、3年前から公式の場に顔を見せたことはな い。もともと表に立って活動することの少ない人ではあったようですが、最近は南フラン スの私邸に引きこもりっぱなしだ。ただ、実権は手放すことなく、グループの各部門の経 営陣へはオンラインで逐一指示が伝えられる。全ての最終決定は常に彼自身が行なう―― そんなふうに信じられていますね。でも…」
 岬の言葉は淡々とよどみがなかった。
「でもそうすると、プロヴァンスの小さな村の教会にある埋葬証明書の記録はどう説明が つくのか、ですね」
「……」
 ル=ヴォワニー夫人は微かに目を細めた。苦笑と言うにはあまりに穏やかに。
「昨日もらった社長のメッセージが、それまでボクの調査で見えていた小さな疑問点への 答えになってくれました。文字通り、あれをドアにして潜り込んでみたんです。そう、あ のメッセージは社長のものではなかった。その社長に成り代わって社を動かしている人物 からのものだったってわけです」
「油断ならない人ね、本当に」
 夫人は組んでいた指をほどいて目を上げた。
「あなたがそんなハッカーの真似までやってのけるとは思わなかったわ。データ分析のエ キスパートってだけじゃなかったのね」
「ボクには分身がいるんですよ」
 そう、そっくりな顔をした共犯者が。
「マダム・ル=ヴォワニー」
 岬は静かに口を開いた。
「あなたが夫の会社を誰も知らないうちに丸々乗っ取ったのには何か別の意味があったは ずだ。相続権から考えても、こんな危険な形を取るよりずっと合法的にそれができたはず でしょう。なのにあなたはそれをしなかった。――理由は、何です」
「もう、答えをつかみかけてるんじゃなくて?」
 挑戦的な微笑だった。
「あなたがターゲットを我が社に定めた瞬間から、私たちは振り回されっぱなしよ。役員 たちはただの害虫くらいに思って簡単に排除するつもりでいるけれど、私はそれで終わる とは思えなかった。あなたという存在自体が、奇妙な、とても奇妙な危機感に思えたの。 堤防に開いた小さなアリの穴のように、その小さな歪みがやがて全体を一気に決壊させる ような…。だからあなたに会ってみたかった。直接、確かめてみたかったのよ」
「確かめて、どうでした?」
 食事の最後に運ばれてきたコーヒーに口をつけながら岬は尋ねた。夫人はしばらく黙り 込んでいた。
「私も、母親だったことがあるのよ。生きていれば、ちょうどあなたと同じ年頃かしら」
 視線は岬を突き抜けて、遠い時間を見つめているようだった。
「あなたを見ていて、とても不思議な気分だった。なんだか、その子のイメージが重なる ようで…」
 岬は席を立った。晩秋の午後は早くも暮れかけて、この中庭にも冷え冷えとした陰影を 落とし始める。
 回廊に足を踏み入れると、そこには執事が礼儀正しく待っていた。
「今度のコーヒーは、ちょうどいい炒り具合だったよ」
 その前を行き過ぎながら、岬はそれだけ、声を掛けた。









 BACK | MENU | NEXT >>