3章ー4















 その日の午後、雨季の始まりを告げるスコールがあった。
 あまりの雨しぶきに、景色の底が明るく乱反射して見える。人はみな家の中に逃げ込ん でいるのか、人通りはぱったり途絶え、車もほんの時おりノロノロと過ぎるだけだ。
「小鳥が、すごいなあ…」
 店の軒下に入って、そんな通りの様子を翼はびっくりしながら眺めていた。この通りが 特別なのか、ジャカルタではどこでもそうなのか、とにかく小鳥の籠が軒ごとに吊るされ ていて大変な賑やかさなのだ。まさに雨音と競っている。
 インドネシア人は小鳥を飼うのが異様に好きな国民かもしれない。ただ飼うだけではな い。競い鳴きをさせるのだ。ブリーダーがちゃんといて、よりよい声で鳴く鳥が高い価値 を持つ。声の美しい鳥と並べて手本にさせたり、もっとお手軽にカセットテープで学習さ せることもある。ミュージックショップにも流行の音楽と並んで小鳥のお手本テープが各 種揃っているくらいだ。
「――翼」
「あ、松山くん」
 不揃いな雨だれの軒をくぐりながら、松山が小走りにやって来た。
「また黙って出て来たな」
 自分もこの近くでいきなり雨に遭ったのだろう。髪をぷるぷると振って水滴を飛ばしな がら松山は翼の横に並んだ。
「おまえ、勝手に出歩くなって言われてんだろ? ほら、こんな中じゃ体も冷やすし、よ くねえんじゃないか」
「うん」
 翼は松山の顔を見上げてぽつんと答えた。
「無理はすんなよ。本番(オリンピック)には出るんだろ? 体を治すほうが先なんだか らな」
「でも俺、試合には出られないんだから、これくらいはやりたいんだ。犯人見たの、俺だ けだし」
 松山はそれを聞いて苦笑した。
「ほんとにしょうがねえなあ、おまえも淳も、変に責任感じちまって。まあ、とにかく無 理はすんな。したってしょうがねえさ。今のとこはな。一樹のことならあいつも覚悟の上 ってやつさ、まあいろいろと自業自得な事情があってな」
「反町くんて――」
 その自業自得の片棒を担いでいる自覚のある松山が言葉を濁すのを追及することなく、 翼はまた小さくため息をついた。そして再びスコールの街に視線を戻す。
「反町くんて、ちょっと不思議な人だよね。国籍不明な感じ、って言うか。こういう街に いても、日本人なのかインドネシアの人なのか無関係に溶け込んで。街の雰囲気にすごく 自然になじんでるって言うか」
「まあな、あいつは外国生まれの帰国子女だし、そういうのがもともと身についてんじゃ ねえのかな、意識しなくても。顔もあんなだし」
「えっ」
 ほとんど同じ顔をした松山の言葉に、翼は思わず絶句する。
「でも、わかるぜ」
 松山はそこでにやっと笑った。
「あれはな、中身が外観に反映してんだ。つまり、どこにも属さない精神、ってやつな」
「どこにも属さない…」
 口の中で呟いて、それから翼は改めて松山を振り返った。
「岬くんとやっぱり似てるかもしれないね。きっとね」
 松山はただ肩をすくめただけだった。













 その同じ雨を、反町は夢の中で聞いていた。
 何度か目が覚めかけ、しかしそのたびにまた深みに沈んでいった。重苦しい暑さが体に のしかかり、何もかもが意識の外に放り出される。
 夢は波が寄せるように、繰り返し訪れた。
『――アリ。お眠り、アリ…』
 それは歌だったろうか。それともやっぱり雨の音だったのだろうか。視線が、自分に向 けられているのを反町は感じた。
 視線。そして額に触れる冷たい掌。
 現実と夢はそんなふうに絡まりながら何度も行き来した。
『どういうことなんだ、このピアスは!』
『話が違うぞ、今回の件に必要な奴だというのはどういう意味だったんだ? すぐに確認 を取れ、さもないとマダム・ブルーとの契約も台無しになる!』
 床に転がされ、男たちの怒鳴り声を頭上に聞いた。訛りの強い英語と、あとは知らない 言葉。自分のことで言い争っているのだろうことは、彼らの視線でわかった。視線。その 中に閃く敵意とそして恐怖。
『追え! すぐに連れ戻せ!!』
 スキを見て外に逃げた。途中で意識が消えた。長い時間どこかに倒れていた――らし い。スコールが、顔を打ち始めるまで。
『――アリ、アリ!』
 弾けるようにして視界が開けた。
 薄暗い室内。湿気と、不思議なスパイスの香りが混じり合っている。最後に、耳元で叫 んだ声は何だったのか。
 反町の前には誰もいなかった。木の壁がまず目に入る。体を動かそうとして、反町は一 瞬呆然となる。手足の感覚がないのだ。頭をわずかに左右に動かすことはできたが、声す ら上げられない。そうやって動こうとしただけで、頭がくらーっとしてまた意識が薄れそ うになった。
 と、そこへ、誰かの声が降ってきた。
「――――」
 目を開ける。若い男の顔だ。インドネシア語のようだが全然わからない。そんな反町の 様子に、男は心配そうに表情を曇らせた。
「――――」
 何か向こうに声を掛け、別の声が返事をした。男は手を伸ばして陶製のカップを受け取 り、反町に向き直る。
「ぐ……」
 枕ごと頭を起こしてもらって、何とか飲むことができた。できたのはいいが、とんでも ない味に口元が歪んでしまう。
 漢方薬か何かだろうか。反町は吐き出しそうになるのをやっとのことで我慢した。男は しかしそれを見て笑顔になる。
「――――」
 だからわからないんだって、インドネシア語。
 大きく息をついて、また体重をベッドに預けた。そのうちふわーっと意識が遠のき、ま た眠りに引き込まれる。
 次に気がつくと、屋根を打つ雨音はもうなくなっていた。しかし部屋の薄暗さはほとん ど同じだった。その分時間が経過したらしい。
「――――」
 今度は女だった。若いお姉さんが二人、そっちとこっちに立っている。反町が目を開い たのを見て、一人が向こうに声を掛けた。
「大丈夫、かい?」
 お姉さんたちの間からまた別の声がした。英語だった。
「英語、わかる?」
 お姉さんたちとよく似た顔立ちの若者が、側に来てかがみこんだ。反町がうなづくと、 にこと白い歯を見せる。
「僕の家族が君を見つけてきたんだ。英語を話せるのは僕だけなんだけど、仕事があって 帰るのが遅くなって、ごめんな」
「あ……」
 こっちも答えようとしたが、声が出ない。口をぱくぱくさせてしまった。若者が、悲し そうな表情になった。
「まだだいぶ具合が悪いみたいだね。熱が高いし。何か毒物のせいか、あと熱射病みたい だな。身元とか連絡先とかわからなかったんで、気がつくの待ってたんだ。でも、まだ動 かないほうがいいよ。薬を飲んでゆっくり眠ってな。僕はまた仕事に行くけど、僕の家族 が見てるから、大丈夫」
 いつのまにか周囲に人の顔が増えていた。みなそっくりな顔だ。この若者の家族なのだ ろう。だが反町にはインドネシア人の年齢がよくわからなかった。若いのか年をとってい るのかさえ。
「僕の名前はアネカだ。そっちから母と、妹と、下の妹と、弟と、姉の夫と、叔母と、姉 と、姉の子ね。あと祖母と兄もいるよ」
 一度に言われても、覚えられるわけはなかった。しかし紹介されて、家族たちはどこか ほっとしたような様子だった。言葉の通じない病人を相手に、ずいぶん気をもんでいたに 違いない。
 アネカは仕事に出て行った。反町はそれから2回、あのとんでもない味の薬を飲み、2 回眠りに落ちた。天井の低い半土間の家の中は、そのたびに家族の数が増減し、穏やかな 会話が重なった。夜の最後の祈りの朗誦がラジオから低く流れ、それを耳に残しながら反 町が3回目の眠りに落ちようとした時、アネカの母が反町を覗き込んだ。何かを囁きなが ら額にかかる髪をそーっとかき上げている。
「アリ…?」
 アネカの母と並んで覗き込んでいた老女が、小さく声を出した。アネカの祖母だ。
「アリ――」
 その声は、確かに、あの夢の声だった。









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