3章ー3 







 





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「ピエールは怒り狂っているよ」
 他人事のように、しかし解けない憂鬱を眉間に秘めて、三杉は言った。
「岬くんがジャカルタ行きの航空券を用意していたことがわかったんだ。昨日の便だよ」
「じゃあ、あいつ、本気でここに来るつもりだったんだ」
「そういうことになるね」
 タクシーのシートに並んで座る松山を横目で見て、三杉は微かに笑った。
「岬くんは今回の拉致の可能性を十分に予測していた。僕たちが考えていたよりもはるか に高い確率で」
「なんだって?」
「一樹に依頼していた道案内。そして航空券。この2つは同時に存在し得ない。説明がつ かないんだ。おそらく岬くんにとってもそうだったんだろう」
 タクシーはスカルノ・ハッタ空港から市内に向かっていた。昼下がりの絡みつくような 熱気はエアコンの効いた車内には届かない。が、窓の外では無機質な高層ビル街が白骨の ように太陽に灼かれていた。
「もしかすると、それも含めて賭けだったのかもしれない。どっちに転んでもいいように 準備しておくなんて」
「翼と約束しておいて裏切る形になるんだぜ、あいつがそれはやるかな」
「そうだね。でもあえてその道を選んだということだ。なんだかそれ自体が岬くんのメッ セージのような気がしてならないよ。…うん、たぶん僕に向けての…」
「お前に?」
 松山はまっすぐ見つめ返した。
「今さらそんなまわりくどい形で? あいつって、少なくともおまえに対しては率直だと 思うぜ」
「えっ…?」
 思わず言葉を失った三杉である。松山はただにやりと笑い返しただけだったが。
「脅かさないでくれ、光。そうでなくても岬くんの行動を読もうと苦しい努力をしている ところなんだ。これ以上率直に来られたら身が持たないよ」 
 出発前夜に三杉家で反町が残していったいくつかのファイル。これはイコール岬の動き をなぞるものでもあった。国際政治の裏舞台を研究テーマとしている岬は、大学での活躍 が引き金となって一気に注目を集める存在となってしまった。自然、データ収集そのもの も慎重にならざるを得ない。不特定多数の中に匿名で紛れ込めるインターネットは、実は 岬にとっては好都合な場でもあった。またこういった一般に開放されているまとまりのな いデータの海も、研究のための素材として馬鹿にはできない。むしろそういった天然素材 を積極的に積み上げ、独自の手法で事実をあぶり出して形ある「情報」へと組み変えてい く才能こそが岬なのだ。
 しかしそこで困るのが、その匿名性に身を隠す彼の姿が完全に保護色に紛れ込んでしま うことだった。そうなると彼ら身内にとっても探し当てるのは困難を極める。
「岬くんは必ずどこかにいる」
 三杉は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 
「でもその岬くんのところに達するには、曲がりくねった道、闇の迷路をひたすら抜けて 行くしかない。僕もできる限りはやってみたよ。でも見知らぬドアがいくつも行く手を阻 むんだ――途中までたどるのがやっとさ」 
「一樹のやつがいないと?」
「そう、彼の協力なしにはこの迷路は抜けられない。岬くんのところには着けないんだ」
「それとも岬が自分で戻って来るか、だろ」
 松山の何気ない言葉に、三杉は驚いた顔を向けた。見開いた目が光を反射し、そして笑 いに崩れる。
「ふふふ、本当だね。本当にそうだ。光、君の言う通りだよ」 
「なんだよー」
 三杉に頭ごと抱え込まれて、松山は不服そうに口を尖らせた。
「甘えたって何も出ないぞ。俺は岬の真似もできねえし、一樹の腕も持っちゃいないん だ」
「だからだよ。ありがとう、光」
「ああ、わかったから離せよ。もう着くんじゃないのか?」
 松山の言う通り、タクシーはスピードを落とし始めていた。まもなく目的地らしい。
「ここか。日本と案外変わらねえんだな、制服も似てるし」
 タクシーはジャカルタ市(DKI)警察本部の前で二人を下ろした。
「そりゃそうさ。国が独立した時に、日本の警察システムを真似たんだから」
「へえ〜」
 受付で待つうちに、いやにでっぷりとしたシャツ姿の男が現われた。受付の係員と短く 言葉を交わしてから疑わしそうに二人を見る。ここまで若いのが来るとは思っていなかっ たらしい。
「報告は受けています、確かに。管轄のクバヨラン・バル地区担当者が今朝ホテルに出向 いて目撃者の――ソリマチさんに話を聞いています。ただ、目撃証言だけでは状況証拠も ないわけですし…」 
 つまり何ら成果は上がっていないというわけだった。ハディナタと名乗った防犯課長 は、全力を尽くして、と何度も繰り返しはしたが、どうも自分の職務として実感している 熱意は感じられなかった。
「捜索願はこちらで受理します。ここにサインを」 
 窓口の係官が三杉とやり取りしている間に、ハディナタ警部は捜索願に添えられた写真 を手にとってしきりに首を捻っていた。三杉と、松山に目をやりながら。
「では、どうかよろしくお願いします。僕たちはホテルにいますが、何か緊急時には、こ ちらも連絡に使ってください」
 三杉は別れ際に名刺を手渡した。 
「ほう、ミスギ・パシフィックのお身内の方でしたか。なるほどなるほど。ではまたご連 絡します」 
 さっきまでのぞんざいな態度が微妙に変わる。眠そうだった目に少しだけ生気が戻って きたようだ。もう一度二人の顔をじっくりと眺め直してから、ハディナタ警部は笑顔を見 せ、そして去って行った。
「……なあ、淳」
 歩きながら松山が服を引っ張った。
「さっき、目撃者の名前を『反町』って言ったよな。――そういうこと、なのか?」
 三杉は向き直って目でうなづく。まさか、誘拐の目撃者が、その前に既に誘拐されてい たはずの人間だとは、大きな声で言うわけにはいかない。
「目撃者が『反町』なら、じゃあ、さっきの捜索願いは…」
「もちろん、『岬太郎』の名前で、だよ。ただし、写真は一樹のだけど」
「そいつはまた……とんでもねえ話だな」
 松山は肩をすくめた。
「あのおっさん、やけに俺たちのことじろじろ見てたけど、捜索願いの写真と似てるとか 思ってたのかな」
「それもあるだろうけれど――ひょっとすると、その前からこの手の顔に覚えがあったの かもね」
「なに?」
 松山の目が険しくなった。
「今度の件に関わってる奴が、警察にいるってのか? ――さっきのおっさんが?」
「共犯、と言えるほど積極的な役割かどうかは確かじゃないけれど、さっきの態度を見る 限り、何か知っているのは間違いないね。そうでなくてもこの国の官界では伝統的な悪習 がまだ根深く残っていると言うし」
 三杉はあっさりと言ってのけたが、警察までがコネとワイロに汚染されているというの は、よく考えると――いや、よく考えなくても恐ろしいことである。
「じゃ、じゃあさっきの名刺を渡したのは…」
「そう、それならそれで利用価値があると思ってね。うちの系列会社のだよ。現地の大手 企業と合弁でやってるから、効力はけっこうあると思うよ」
 政府の中枢における巨額の贈収賄から、入国審査での挨拶代わりの袖の下まで、どうし ても国家権力というものは潤滑剤なしには動かない。三杉の指摘の通り、これはインドネ シアの長期独裁政権の中で生まれてきた悪しき遺産というわけだった。
「利用できるものは利用しなくちゃ。ね?」
 三杉はふふっと笑った。
「おまえなあ…」
 話しながら外に出てくると、警察本部の周囲はなにやらものものしい雰囲気に満ちてい た。機動隊らしき一団が暑苦しそうな装備で勢揃いしていたり、その向こうには装甲車ま で見えているところから考えると、例のテロ警戒は本物らしい。二人はそんな光景を見な がら表通りへと向かった。
「とりあえず彼らにとっては、今は迷子捜しよりもテロ対策で頭も手も一杯だろうね。大 事なお客様たちもまもなく迎えるわけだし」
「え、何かあるのか? 俺たちのオリンピック予選以外に」
 三杉は大通りにかけられた横断幕を指差した。インドネシア国旗と一緒に、そう言えば 街のあちこちで見かけていた横断幕だった。
「イスラム諸国代表会議を歓迎しているのさ。テログループが湧いて出てもおかしくはな いと思うよ」
「イスラム? 中東とかの? ――ああ、インドネシアってイスラムの国だっけ。なんか イメージなかったけど」
「僕も今日、機内誌の記事を読んだ受け売りだよ。ちょうど僕たちの大会日程の最後あた りとかぶるらしい」
「そうかぁ。ならやっぱり俺たちが自力で探すしかないのか」
「一度に二人だからねえ。しかも一人はこの慣れない土地で、一人は迷路の中。困った状 況だよ」
 困っているのかいないのか、見た目にはわからないのが、彼らの困ったところだった。








◆ 





「ここ?」
「さようでございます」
 執事は慇懃にうなづいた。
「ご自由にお使いくださいませ。寝室と続き部屋ですので」
 寝室とはドア一枚隔てた隣室に、岬は食事の後に案内された。
 そこに待っていたのは、コンピュータの一群であった。邸内のアンティークな内装には まったくそぐわない光景だ。本体とモニター、各種ドライブにプリンターが数台。配置や 接続にちょっと無理があったのか、コード類が床を縦横に埋めている。執事は簡単な説明 だけですぐに姿を消した。
「ご自由に…?」
 岬は疑わしそうに部屋に足を踏み入れる。
「そんなはずはないよね」
 ネット接続はされているのか、それがどこまで自由に動けるものなのか。岬はパソコン を立ち上げるとまずそれをチェックした。
 回線はロックされていた。岬にとってはこちらのほうが監禁にふさわしい状況である。 デスクトップに置かれていた、一つのテキストデータがその代わりのように岬を待ってい た。
【親愛なるムシュー・ミサキ。我々の招待を受けてくれて感謝する。君にとっては不本意 かもしれないが、そこにいてくれる限り最大限の便宜を図らせてもらう。まずは我々の歓 迎の挨拶として、君にひとつの提案をしたい。】
「歓迎…?」
 岬は少し眉を寄せるとさらに読み進めた。
【――まず君が研究活動に付随して我が社に不用意にアプローチしたことだが、君の情報 収集能力は我々の予測を大きく超えており、その結果当社の経営セクションのみならず、 通信セキュリティ部門の担当者をも震撼させた。逆説的にセキュリティ強化を促してくれ たことには感謝する。しかし、我が社も踏み込んでもらいたくないセクションというもの がある。このまま無罪放免というわけにはいかない。】
「…ああ、そ」
 岬はそこまで来てようやく立ったままでいるのをやめて椅子に腰を下ろした。話はとり あえず聞いておくしかなさそうだった。
【そこで、課題を君に与えたい。現在大西洋越しに進めている技術移転の商談があるのだ が、国連による技術輸出規制がその障壁になろうとしている。君も関心を寄せていた、政 府との協力体制にも支障が出ることになる。そこで、その対応としての緊急の方策が我々 にも必要だ。それを君に試みてもらおうということになった――】
「……?」
 岬は顔を上げた。デスクの上、ちょうどパソコンのモニターの脇に置かれている一台の 機器のランプが点滅し始めたのだ。軽い電子音が響き、内蔵のスピーカーから声が流れて きた。岬の表情がとたんに不機嫌になる。
『どう? その部屋は気に入って? 間に合わせだけれど、必要なものは一通り揃えたつ もりよ。他に何か必要なものがあったら言ってちょうだいね』
「さあ、まだ何とも言えませんね。何をさせようとしているのか次第です」
 確信はなかったが、相手の流儀から考えて応答機能はあるはずと踏んだ岬はインターホ ンのつもりでそのまま機器に向かって答えた。
『夫からのメッセージはもう読んでもらったわね。そこに用意してあるドライブに、必要 なデータは入れてあるわ。あなたが侵入した記録も含めてね』
 夫人の声はむしろ楽しんでいるような響きさえあった。
【――来年の国連総会で採択されようとしているある規制条約がまもなく理事会に提出さ れる。その採択案に仕掛けられている『時限装置』と呼ばれる文書を見つけ出した上で、 君に解析してもらいたい。】
『でも、会社側が把握できたのはそこまで。あなたの行動はチェックできても、あなたの 頭脳の中身まではフォローしきれない。だからここに来てもらったのよ』
 夫人の声は冷静だった。
 岬はすぐに答えず、添付されていた別の資料を画面に呼び出した。社長のメッセージを 裏付けるように、E・S社の軍需部門の開発、トレーディングに関する部署の内部情報が 膨大なファイルとなって並ぶ。東西冷戦構造が消滅した後も厳然として残る新たな軍拡の 流れが、兵器供与という外交戦略の形で大国から第三世界へと広がる図式となってそこに 存在する。これは数字上のデータではない。紛れもない現実だった。
『見覚えがあるでしょ。どう? こんな、うちの会社の人間さえ知らないような奥深くま で入り込んだネズミは、前代未聞だそうよ』
「ネズミの真似はしましたがそこでつまみ食いはしてませんよ。研究の対象として観察さ せてもらっただけです」
『と言うような建前が通じるほど平凡な研究者じゃないわよね、あなたは』
 夫人はそこで言葉を切った。
『あなたには私たちには見えないものが見えている。現在そこで何が起きているかだけで なく、その先にあるものまでつかもうとしているんですものね。ただ消せばいいような人 じゃないのは確かよ』
「それだけの価値があるか、それを見極めるための課題なんじゃないんですか?」
 岬は再び社長のメッセージを眺めた。その最後の言葉を。
【我が社は長きに渡って政府とのパートナーシップを結んできた。国内経済に寄与すると 同時に外交上の貢献も少なからず成し得てきたと自負している。君の手ひとつでそれを壊 すことも在り得るのだという自覚を持って、この課題に取り組んでもらいたい。最大限の 努力を期待する。】
 岬はそこで手を止める。
「ボクを試したいと言いましたよね。ボクをここに閉じ込めても、こうしてコンピュータ を与えて外との回線を繋げば、もう束縛はできませんよ。ボクはあなたがたの課題より自 分の課題を優先するかもしれない」
『そう、確かにリスクは大きいわね。でもこれは賭けだと言ったはずよ。私にとっても、 そしてあなたにとっても』
「それ、脅しですか」
 岬は一人苦笑した。
「あなたたちの大切な会社も、ボクにとってはただのデータの集積です。世間に向けてあ るべき形を持つ、言わばハードウェアです。でもそれを動かすのはあくまで意志を持った 人間の手。ボクはその手に興味があるだけです」
『…それはあなたにとって不幸なことよ』
 夫人の声は心なしか低くなった。
『あなたは自分が傷つくことを恐れない。そこに足を踏み入れるにはあまりに純粋すぎる わ。研究者として、第三者として触れるには、ね』
「もしそうだとしても――」
 岬は冷静に、画面の文字を見つめていた。
「ボクはもう引き返せない。そうじゃないですか?」
『――ええ、岬。それを選ぶのもあなたね。どちらだとしても』
 夫人はこの時初めて岬の名を口にした。
『そして私にはそっちのほうが興味あるの。会社と違ってね』
 その発音が――自分の名の発音が、いつも自分が耳にしているフランス語なまりでなか ったことに、岬は少し経ってから気がついた。
 微かな違和感。後味の悪い違和感だった。






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