◆
「ここ?」
「さようでございます」
執事は慇懃にうなづいた。
「ご自由にお使いくださいませ。寝室と続き部屋ですので」
寝室とはドア一枚隔てた隣室に、岬は食事の後に案内された。
そこに待っていたのは、コンピュータの一群であった。邸内のアンティークな内装には
まったくそぐわない光景だ。本体とモニター、各種ドライブにプリンターが数台。配置や
接続にちょっと無理があったのか、コード類が床を縦横に埋めている。執事は簡単な説明
だけですぐに姿を消した。
「ご自由に…?」
岬は疑わしそうに部屋に足を踏み入れる。
「そんなはずはないよね」
ネット接続はされているのか、それがどこまで自由に動けるものなのか。岬はパソコン
を立ち上げるとまずそれをチェックした。
回線はロックされていた。岬にとってはこちらのほうが監禁にふさわしい状況である。
デスクトップに置かれていた、一つのテキストデータがその代わりのように岬を待ってい
た。
【親愛なるムシュー・ミサキ。我々の招待を受けてくれて感謝する。君にとっては不本意
かもしれないが、そこにいてくれる限り最大限の便宜を図らせてもらう。まずは我々の歓
迎の挨拶として、君にひとつの提案をしたい。】
「歓迎…?」
岬は少し眉を寄せるとさらに読み進めた。
【――まず君が研究活動に付随して我が社に不用意にアプローチしたことだが、君の情報
収集能力は我々の予測を大きく超えており、その結果当社の経営セクションのみならず、
通信セキュリティ部門の担当者をも震撼させた。逆説的にセキュリティ強化を促してくれ
たことには感謝する。しかし、我が社も踏み込んでもらいたくないセクションというもの
がある。このまま無罪放免というわけにはいかない。】
「…ああ、そ」
岬はそこまで来てようやく立ったままでいるのをやめて椅子に腰を下ろした。話はとり
あえず聞いておくしかなさそうだった。
【そこで、課題を君に与えたい。現在大西洋越しに進めている技術移転の商談があるのだ
が、国連による技術輸出規制がその障壁になろうとしている。君も関心を寄せていた、政
府との協力体制にも支障が出ることになる。そこで、その対応としての緊急の方策が我々
にも必要だ。それを君に試みてもらおうということになった――】
「……?」
岬は顔を上げた。デスクの上、ちょうどパソコンのモニターの脇に置かれている一台の
機器のランプが点滅し始めたのだ。軽い電子音が響き、内蔵のスピーカーから声が流れて
きた。岬の表情がとたんに不機嫌になる。
『どう? その部屋は気に入って? 間に合わせだけれど、必要なものは一通り揃えたつ
もりよ。他に何か必要なものがあったら言ってちょうだいね』
「さあ、まだ何とも言えませんね。何をさせようとしているのか次第です」
確信はなかったが、相手の流儀から考えて応答機能はあるはずと踏んだ岬はインターホ
ンのつもりでそのまま機器に向かって答えた。
『夫からのメッセージはもう読んでもらったわね。そこに用意してあるドライブに、必要
なデータは入れてあるわ。あなたが侵入した記録も含めてね』
夫人の声はむしろ楽しんでいるような響きさえあった。
【――来年の国連総会で採択されようとしているある規制条約がまもなく理事会に提出さ
れる。その採択案に仕掛けられている『時限装置』と呼ばれる文書を見つけ出した上で、
君に解析してもらいたい。】
『でも、会社側が把握できたのはそこまで。あなたの行動はチェックできても、あなたの
頭脳の中身まではフォローしきれない。だからここに来てもらったのよ』
夫人の声は冷静だった。
岬はすぐに答えず、添付されていた別の資料を画面に呼び出した。社長のメッセージを
裏付けるように、E・S社の軍需部門の開発、トレーディングに関する部署の内部情報が
膨大なファイルとなって並ぶ。東西冷戦構造が消滅した後も厳然として残る新たな軍拡の
流れが、兵器供与という外交戦略の形で大国から第三世界へと広がる図式となってそこに
存在する。これは数字上のデータではない。紛れもない現実だった。
『見覚えがあるでしょ。どう? こんな、うちの会社の人間さえ知らないような奥深くま
で入り込んだネズミは、前代未聞だそうよ』
「ネズミの真似はしましたがそこでつまみ食いはしてませんよ。研究の対象として観察さ
せてもらっただけです」
『と言うような建前が通じるほど平凡な研究者じゃないわよね、あなたは』
夫人はそこで言葉を切った。
『あなたには私たちには見えないものが見えている。現在そこで何が起きているかだけで
なく、その先にあるものまでつかもうとしているんですものね。ただ消せばいいような人
じゃないのは確かよ』
「それだけの価値があるか、それを見極めるための課題なんじゃないんですか?」
岬は再び社長のメッセージを眺めた。その最後の言葉を。
【我が社は長きに渡って政府とのパートナーシップを結んできた。国内経済に寄与すると
同時に外交上の貢献も少なからず成し得てきたと自負している。君の手ひとつでそれを壊
すことも在り得るのだという自覚を持って、この課題に取り組んでもらいたい。最大限の
努力を期待する。】
岬はそこで手を止める。
「ボクを試したいと言いましたよね。ボクをここに閉じ込めても、こうしてコンピュータ
を与えて外との回線を繋げば、もう束縛はできませんよ。ボクはあなたがたの課題より自
分の課題を優先するかもしれない」
『そう、確かにリスクは大きいわね。でもこれは賭けだと言ったはずよ。私にとっても、
そしてあなたにとっても』
「それ、脅しですか」
岬は一人苦笑した。
「あなたたちの大切な会社も、ボクにとってはただのデータの集積です。世間に向けてあ
るべき形を持つ、言わばハードウェアです。でもそれを動かすのはあくまで意志を持った
人間の手。ボクはその手に興味があるだけです」
『…それはあなたにとって不幸なことよ』
夫人の声は心なしか低くなった。
『あなたは自分が傷つくことを恐れない。そこに足を踏み入れるにはあまりに純粋すぎる
わ。研究者として、第三者として触れるには、ね』
「もしそうだとしても――」
岬は冷静に、画面の文字を見つめていた。
「ボクはもう引き返せない。そうじゃないですか?」
『――ええ、岬。それを選ぶのもあなたね。どちらだとしても』
夫人はこの時初めて岬の名を口にした。
『そして私にはそっちのほうが興味あるの。会社と違ってね』
その発音が――自分の名の発音が、いつも自分が耳にしているフランス語なまりでなか
ったことに、岬は少し経ってから気がついた。
微かな違和感。後味の悪い違和感だった。
|