5章ー1






第5章
証  明












 カーソルが移動していた。
 自動的に画面が切り替わる。
『E・S社の昨年期収支決算。同期予算内の部門別配分――』
 岬の目は文字を追っていなかった。それらのデータの先にあるもの。あるいはデータの 姿をして潜んでいるもの。
 マダム・ブルーという組織はまさにそういう存在だった。
 E・S社の資金の一部が常に一点へと動いている。蓄積ではなく、さらにどこかへと動 いていくために。
 その行き先はこちらからは見えない。追って行ってもおそらくいくつもに分散し、名や 姿を変え、膨大なアドレスを吐き出すだけだろう。マダム・ブルーはそんなふうにして必 ず影の中にいた。
 岬の思考はむしろ漠然とした抽象に向かって行く。
 この形を何と呼べばいいのだろう。紛争があり、確執があり、憎しみがある。国境と、 それ以上の溝がある。そこには血が流れ、そして権力と金が動く。
 形のない抽象。姿はなく、ただ名前だけがある。
 マダム・ブルー。
 企業としての、国家としての、また個人としての欲望や憎悪をどこまでも貪欲に巻き込 みながら、それらを超えた一つの意思がある。その在り方が、むしろ純粋な透明感を持っ てしまうことに岬は驚く。これはなんというアイロニーだろう。
 しかし彼はただ感嘆しているわけにはいかなかった。目指すのはそこ。E・S社の用意 した果てのないデータのさらに奥。
 軍需産業とその市場のパワーバランスに大きな力を振るうオーガナイザー、マダム・ブ ルーは、今この瞬間にも新たな動きを続けているはずなのだ。
 キーを叩いておいて岬は席を立った。こちら側のプリンターは低い音を立てながら資料 を次々と吐き出している。その1枚を手に取りながら、岬はふと背後を振り返った。
 モニターが刻々と無機的な数字の列を重ね続ける。青い反射光が、テーブルの縁で音も なく揺らめいている。
 岬はずっと監視の目を感じていた。
 生身の人間のそれではない。コンピュータの中、回線のいたる所にその影は存在してい た。
『エラー。このサーバーはアクセス制限しています』
 彼の動ける範囲はE・S社のいわゆる社内LANに限定されていた。直結された固定リ ンクでのみ自分のデータベースにアクセスできるものの、その領域をわずかでも越えるこ とは不可能であった。
 インターネットはシャットアウト状態。メールを含めた書き込みはどんな形であれ送信 不可。課題をこなすにはこれだけで十分だ、ということをアピールしているのだろう。
「――包囲網の中、ってわけ。ボクを猛獣か何かと勘違いしてるみたいだな」
 いや、勘違いと言い切っていいかどうか。
「余計なことは考えずにせっせと働け、ってことか」
 外部との接触は断たれている。あくまで必要最小限の自由なのだ。やはりこれも軟禁状 態の一種と言えた。庭園だけが開放されていて屋敷の中では閉じ込められている。今のこ の状態とまさに同じである。
 岬は庭園の光景を思った。
 これがあの庭園と同じ意味を持つのなら、そこで岬を密かに監視している存在が何なの か、疑う余地はない。
「ボクは逃げやしないよ。ここからも……あなたからもね」
 逃げない代わりにそれ以上のことをやろうとしているのだが。
 岬は前夜からずっと取り組んでいる国連常連理事会の議事ファイル検索に最後の絞り込 みをかけた。
 冷戦構造が消滅して以来、世界の軍需政策は新たなシーンに入った。東西間で続いてい た軍拡競争が終わっても、これで戦争の脅威もなくなって世界は平和になる…などという ことはただの夢、ただの絵空事だった。「平和の配当」と当初言われたような、削減され た分の軍事費が平和的分野、つまり福祉政策や途上国援助に回されていくだろう、という 予測は理想でしかありえなかった。
 軍産複合体と呼ばれる軍需産業と各国の軍隊との利害の一致による結びつきはさらに強 固なものとなり、そこからさらに伸びる政界、財界、官界、さらには学界やジャーナリズ ムとのパイの分け合いに移行しただけである。
 E・S社は岬の頭脳を利用したい。そのパイの取り分を少しでも大きくするために。岬 に与えられた課題はすべてそこに終始する。今回、こういう危険な手段を用いても岬を確 保しようとしたゆえんである。
「もっとも、あのオバサンは別みたいだけど」
 E・S社の実権を亡き夫の名を使って誰にも知られずに手にしているル=ヴォワニー夫 人。油断はできない。岬の警報はずっと鳴り続けている。
 しかし課題は課題。岬はきちんとそれをこなすべく着々と目指す先に近づいて行き、入 り口はすぐ前まで来ていた。あとは自動的に最後のアカウント・コードを導くばかりであ る。
 岬はそこまで来て「課題」に背を向けると、もう一台のモニターに向き直った。
 こちらでは自分の本来の研究課題が同時進行していた。対中東武器輸出ルートの解析 と、その中から浮上してきたマダム・ブルーの内部情報――今回E・S社から追われるき っかけとなったのはこれを入手したことだった――を、より確実な事実として絞り込む作 業の試行錯誤に、この二晩を費やしているのだ。
 あらかじめランダムに集めてあったありとあらゆるデータを片っ端から洗い直し、分析 と整理を繰り返す。
『マダム・ブルーの活動基盤は?』
 命題に従ってデータが並び直されていく。やがて組織の活動範囲が座標上に広がり始め た。時を遡り、世界の各地点にその領域が示される。表舞台には決して現われることのな い、組織の輪郭である。
『14年前――』
 データが語り始める。
『アラビア半島の小国でのクーデター未遂事件』
 それこそが全ての発端だった。マダム・ブルーの宇宙の始まり、ビッグバンである。
 事件に関わったかどで処刑された数人の王族メンバーの中の一人がその後の記録から消 えていた。歴史の記憶から抹殺されたその存在が、やがて時を経てヨーロッパに現われ る。マダム・ブルーの創設者として。
『エライア・ル=ヴォワニー』
 それが彼女の新しい名前――。一度失った存在に再び生命と、そして大きな権力を与え た名前だった。
 だが問題は名前ではない。過去の名前は過去のもの。問うべきはそれが現在とどう連動 しているかである。ル=ヴォワニー夫人の思惑がどこに向かっているのか――岬はそれを 知らねばならない。
 かなり厳しい報道規制があったらしく、当時の記録は極めて少なく、かつ手の加えられ たものがほとんどだったが、その断片を繋ぎ合わせていくことによって隠されていた事実 がわずかずつ姿を見せ始めていた。
 アラビア半島に点在する非独立小国の間で、イスラム原理主義をめぐって勢力の二分化 が起きていたこと。さらにそれに乗じて原油への利権を狙った欧米各国の政治的介入がそ の対立をあおったこと。それらが王族間の後継者争いに端を発したクーデターとして連鎖 していったのである。
「――なに、それ」
 が、岬の目はその中のたった一つの名前に止まった。14年前の事件を報じた外電記事 の一部にあったリスト――事件に際して国外追放処分を受けた数十人にも及ぶ外国人の名 前の中に、唯一混じっていた日本人の名前。
「ソリマチ、だって…?」
 岬は一瞬動きを止め、目をぱちぱちさせた。そしてはっと思い出す。「外」との繋がり をただ一つ可能にしているエアポケット。それを用意してくれた仲間の名前を。
 一度は自ら連絡を断った相手だった。そういう約束ではあったのだ。連絡をしようと思 えばできたその場所に、岬は急いで行ってみる。しかし、そこに待っていたのは意外な書 き込みだった。
「嘘…」
 岬は眉を寄せた。反町と自分しか知らないはずの場所のはずだった。
『クウェートの日本領事館に在官していた「K・ソリマチ」すなわち反町薫氏はクーデタ ーの直後に退官している。が、外務省の記録では事件の2ヶ月前に届けが受理されたこと になっていて、明らかに作為的な食い違いがある。一樹の家族は確かにこの事件時にクウ ェートに住んでいた。実際に何があったか確認をとるつもりだ。事件に関わっていた可能 性は高いと思う――』
 同じ情報源とはいえ、今自分が目にしたばかりのデータが相手にも渡っていることに岬 は戸惑った。では、やはり反町は…。
『一樹は、ジャカルタで君の身代わりをしている間に連れ去られて、行方が知れない。岬 くん、連絡をくれ。僕らは君を探している――』
「三杉、くん……」
 予測しなかったわけではない。反町自身にもその危険は伝えてあった。共に今回のネッ トワークの要塞を築き上げた共犯者として。
「でもそんなことって…?」
 しかし、この事実は何を意味するのか。技術上のスペシャリストとして力を借りて、そ こまでのはずだったのに。まさかこの局面で自分の対する相手の奥深くで関わってくるな ど考えてもいなかったのだ。
『――岬くん、連絡をくれ。僕らは君を探している』
 データの迷路にたった一人で入り込んだはずの彼に、まだ呼び戻そうとする声がある。
 岬はいつも一人だった。一人で何でもやってこられたし、一人だからこそやれたことば かりだった。そしてそれは彼自身が選んだ道でもあったのだ。
 岬は当惑した。








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