5章ー3















『目撃証言が得られました』
 ジャカルタ警察からの連絡は、暇をもてあましていた松山が受け取った。
『確認のため、こちらにご足労願います』
「そのまま信じちゃいけないよ」
「わかってるって」
 コンピュータから離れるわけにいかない三杉が心配するのを笑い飛ばしながら、松山は 張り切ってみせた。
 もちろん三杉が心配しているのは松山の身に危険が降りかかることではなく、反対に降 りかける側に回ることであった。罠は同時にチャンスへの足掛かりになる。今のこの時点 ではむしろ相手を刺激せずに慎重に状況を測りたいところだ。
 しかし松山をこれ以上デスクワークに縛り付けておくとどうなるかを三杉はよく承知し ていた。
「まあ逆効果ということもあるしね」
 三杉らしからぬ乱暴な楽観論に見送られて、松山はホテルを出た。その直後である。
「こら!」
「あっ、松山くん…」
 しまった、という表情で、鉢合わせした松山の顔を振り返った翼だった。こっそり抜け 出したところを背後からつかまった形になる。
「誰かに言ってから出て来たんだろうな」
「うん…、まあね」
 翼も基本的には嘘のつけない体質であるが、代わりに状況を自分独自の価値観に変換し て認識する便利な能力を持っていた。もちろん世間の常識はたいていそれに合致しない。
「目撃者が見つかったの? ほんと?」
 この地区の警察署は歩いても十数分だったので、2人は日陰を選びながらゆっくりと歩 いて行くことにする。
「本当かどうかは怪しいけどな。少なくとも両天秤の片方に乗せる気にはなったみたいだ な」
「……?」
 翼は三杉と松山が何を警察へのエサにしているかは知らない。まして、今度の事件の裏 に現地警察の影がちらついていることも。
「あいつは岬の秘密の近くにいるみたいだからな。俺たちの知らないところで」
「だから、狙われた?」
 そこまで断言できるかはまだ自信がない。反町にも反町の秘密があるらしいのだが、松 山にはまだそれを具体的に語る言葉はなかった。
「ああ、わざわざ来てくださって、ご苦労でした」
 本部からこの地区警察まで出向いて来ていたのか、ハディナタ警部がそこに待ってい た。態度は鷹揚だが、目がやたらぎょろぎょろと落ち着かない。やって来たのが三杉グル ープの御曹司だけではなく、誘拐の直接の目撃者だったことに当惑しているのか。
「どうぞ乗ってください。現場の近くまで行きます」
 若い警官の運転で出発する。警部は助手席で何やら無線のやりとりをしてから2人を振 り返った。
「申し訳ないが、別件でちょっと寄るところができてしまったので、少しここで待ってい てください。我々はすぐに戻ります」
 地区警察からほんのわずか走ったところでパトカーは停車した。警部と運転役の警官は 車を降りて向こう側の建物に入って行ってしまう。2人はパトカーの中に自分たちだけ取 り残される形になった。
「おいおい、どうなってんだ」
 それを見送りながら不平を言う松山に翼はくすっと笑い返した。そして手にしていたミ ネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「ブラジルでもいつもそうだよ。何でも『待ち』だからさ、それが当たり前って思えるよ うになったら地元民になったってこと」
 なるほど、翼は翼でけっこう風土にうまく馴染んでいるようだ。それと、日本のように 水道の飲み水から自動販売機の缶飲料まで不自由しない国は例外であって、暑い土地では 特に確保するべき飲み水は自分で調達すべし、ということも翼が身に着けた教訓らしかっ た。
 2人は一口ずつ喉を湿らせてから周囲の様子を見渡す。パトカーは道路の木陰にちょう ど入っていた。窓越しに見上げると、街路樹の梢がざわざわと風に揺れている。地上では ぴくとも動かない空気も、上のほうではいくらか風が通るらしい。
 地区警察からホテルのある方向までのこの一帯はジャカルタの中でも高級住宅地として 開発された新興地区である。今いるこの通りも、地元の富裕階級の邸宅がそれぞれの広い 敷地に緑の木々に囲まれた白亜の壁を連ねていた。
「静かな所だね」
「そうだな」
 港町として何百年もの歴史を持つこの都市は、いくつもの異なった顔を持つ。植民地時 代のヨーロッパ風建築の並ぶ旧港地区。王宮を中心とする行政地区。中華街。高層ビルの そびえ立つビジネスエリア。さらにその外周で膨張するスラム街。――それはさまざまな 文化の波に洗われながら時を経てきた歴史と結びついて、多民族、多階層というこの国の 避けがたい宿命をそのまま表わしているのだ。
「ふーん、せっかくいいロケーションなのに、無粋な連中がぶち壊しに来ちまったみたい だぞ」
 あせるふうもなく――それどころかなぜか楽しそうにすら見える松山だった。
 どこから現われたのか、確かにさっきまではいなかった男たち数人が四方から間合いを 取りながらパトカーに近づいて来ていた。
「――松山くん!」
 翼が押し殺した声を上げた。つかんだ松山の腕に力がこもる。
「あの車だよ! あれ、見て!」
「車…?」
 緊張した顔で翼が凝視しているのは、通りの向こう側、自分たちのかなり後方に停まっ ている1台の高級車だった。
「さっきの警察の人、早く呼ばないと!」
「あてにしないほうがいいぞ、そっちは」
「えっ?」
 松山は周囲の状況をぐるりと測った。やはり通りには他に人気はなく、場所的にも時間 的にも人通りの絶えるタイミングを選んだ節がある。
「確かこの1本向こうがバス通りだったよな」
「そこまで逃げれば大丈夫かな?」
 翼もこの状況の危険は察したようだ。何よりも、こうして車の中にいたのでは囲まれて しまってそれでおしまいである。
 2人がパトカーから降り立つと、それを合図にしたかのように男たちが駆け寄って来て 前に立ちふさがった。身なりは決して悪くない。糊のきいたシャツに革の靴といういでた ちだ。皆ヒゲをたくわえサングラスをしているので、インドネシア人か他国の者かの区別 はよくわからない。
「おとなしく来てもらおうか」
 訛りのきつい英語だった。松山は聞こえなかったふりをする。そして翼に合図した。
「あっ――畜生!」
 とか何とかそれに近い罵り声が聞こえたが、2人はそんなことに構っている暇はなかっ た。
 翼のペットボトルが空になって歩道に弾んで転がる。水を頭上から撒き散らしたくらい では数秒分の時間稼ぎにしかならなかっただろうが、それでもしないよりはましだった。 コーラだったらもう数秒稼げたかもしれない。
 目の前の植え込みの隙間に、できる限りの素早さで潜り込む。反対側に抜けるが早い か、とにかく2人は表通りの方向を目指した。
「間違いないよ、松山くん。あの時の奴らだ」
 走りながら、翼は自分に確認するようにつぶやいた。
「反町くんを連れてった――」
「誘拐犯か!」
 松山はすぐに引き取って叫んだ。
「そいつらを探しに現場に行くとこだったのに、向こうからやって来てくれるとは幸先が いいぜ!」
 もちろん、松山の発言にあまり良識を求めてはいけない。
「翼、おまえ何メートルくらいなら走れるんだ?」
「さあ? 条件次第かな。日向くんに見つかりさえしなければいくらでも」
 その条件ならクリアできそうだったが、状況のほうはあまりいいとは言えなかった。高 級住宅街はなにしろ一軒ごとが広すぎて通りを抜け切るのも大変だ。目指すバス通りはか なり先らしい。少なくとも人目のあるところまでは行きたいわけだが。
 松山は横目で翼を見下ろした。
 2年前の夏、最後に対戦したあのフィールドで彼らはこんなふうに肩を並べて駆けたの ではなかったか。この同じ暑い太陽の下で、必死の思いに身を引きちぎられるようにしな がら…。
 ――が、それは一瞬の幻想だった。松山は、翼のその走りが彼本来のものでないことを すぐに見て取った。これ以上走らせることはできない、断じて。
「どうするの?」
 足を緩めた松山に翼が問う。
 迷路のような生垣が続いて、幸いなことにそれがさっきの時間稼ぎの分をまだ少々保っ てくれていた。が、すぐ背後まで息せき切った人声は近づいている。
「もっと近道をしなくちゃな、なんにしても」
 松山は地面に手をついて方角を窺った。死角が、必ずあるはずだ。
 黒い靴先が彼らの前を横切った。間を隔てるのはわずかな緑の壁だけだ。次の一手の間 合いを測って、松山は大きく息を吸った。








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