5章ー4






 翼の体を横から抱えて、松山は突進した。その低い姿勢のまま、植え込みを突き抜けて 歩道の敷石の上に転がり出る。
 追っ手の男たちと感動の再会になるはずだった。
 しかしそこに割り込んだ大きな衝撃が、男たちを凍りつかせた。
 クラクションの太い響き――続いてタイヤの軋む摩擦音が空気を切り裂く。
 男たちはとっさのことに棒立ちとなり、ただ立ちすくんだ。
 追っていた相手がいきなり足元に転がり出たと思ったらそれと同時に暴走車である。し かもそれが自分たちの車だったとなると動揺はさらに大きいはずだ。
「感心しないな。ケガ人連れてアクションごっこは」
「若島津!?」
 頭の上から降ってきた声に驚いて松山は顔を上げる。無表情なキーパーが、自分の前で 急ブレーキをかけた乗用車にも動じずに突っ立っていた。暴走をさせた原因はこの男だっ たのだ。
 松山の目が光った。
「…翼を、頼む!」
 跳ね起きるなり相手の車に飛び掛っていく。開きかけた運転席の窓に飛びつくと、ドラ イバーの男と力任せにハンドルを奪い合って左右に大きく切った。
「うわあああっ!!」
 歩道上をコントロールも失ってジグザグ走行する車に、男たちは顔色を変えて逆に自分 たちが逃げ惑った。身内にひき殺されるなどいう事態はぜひとも避けたいところだろう。
「若島津くん若島津くん若島津くんっ!!」
 ボンネットに弾き飛ばされた松山をそのままにして、車は大きく1回バウンドして歩道 の植え込みにめり込んだ。悲鳴とも怒号ともつかない声が上がる。
「早く、松山くんを止めて!」
 助けてとは言わないあたり、翼も松山の方向性をよく把握しているようだ。だが若島津 は、もがく翼を落ち着いて引き寄せた。逃げるついでにこぼれてきた一人が、こちらの2 人に気づいて襲いかかってきたのだ。
「――あの車なんだ! 市場で、反町くんをさらって…」
 片手突きで軽く止めておいて足払い。それで若島津には十分だった。歩道に叩きつけら れて男のサングラスが弾け飛ぶ。
 翼はその男の不幸の一部始終には目もくれず――よほど若島津の腕を信頼しているのか ――抱き止められた腕から必死に身を乗り出していた。その視線の先では、怒号の中、松 山が男たちと格闘している。
「ふーん」
 これでも若島津は目いっぱい感動しているらしい。
「反町の次に今度は松山…。ああいうのを専門に狙う連中なのか。剣呑な趣味だな」
 確かに危ない。見た目はどうあれ、この四つ子に手を出すことはすなわち破滅に通じか ねないのだ。
「いーてててて! 何しやがんでぃ!!」
 しかし、この状況は既に子供のケンカ並みになりつつあった。車のルーフの上で悪態を つきながら暴れている松山に対し、それをなんとか引きずり下ろそうとする男たちも、な まじ数が多いだけに傍目には少々情けなささえ漂い始める。
 さすがに野次馬がわらわらと増えてきてはいた。ただ、騒ぎの当事者がどちらも地元民 ではないのが原因か、彼らの盛り上がり方はイマイチで、恐怖と興味が半々といった表情 で遠巻きにするばかりである。
「どうして警察の人は助けに来てくれないんだ! さっきまで一緒にいたんだよ…!」
 パトカーのほうを振り返りながら翼は叫んだ。それを守っているのか引き止めているの か定かではない抱きとめ方のまま若島津はゆっくりと周囲を見回した。
「松山は当てにしてなさそうだな、そっちは。自力でやっちまおうとしてるとこを見る と。もっともあいつのただの無鉄砲かもしれんが」
「若島津くん?」
 翼は目を丸くした。
「警察が、誘拐犯をかばってるって言うの? …まさか!」
「俺ならかばいたくなるかもな。なにしろあいつらが相手となると」
 四つ子に対する若島津のトラウマは相当深いらしい。翼に聞こえないように口の中でつ ぶやいてから若島津は素早く野次馬の列まで下がった。
「松山くんを置いてくの?」
「あんなのと知り合いだと思われたくないだろう」
 若島津の表情はやはり変わらない。
「それにおまえを隠しておかないと。ここにいるはずのない人間なんだから」
「あいつら、俺のことなんてわかってないさ」
 確かに実行犯たちは翼を2回も見逃していることになる。顔さえも知らないということ か。脅迫状までよこしておきながら。
「あの脅迫状はやっぱりただのエサだったんだね、岬くんを釣るための」
 四つ子を見誤るようなことは当然ながらありえない彼らチームメイトであるが、世間に それを期待しすぎてはいけない。しかもここは外国なのだし。
 翼と若島津は改めてその張本人(の一人)の様子を見つめる。既に膠着状態、ルーフの 上の松山とそれを取り巻く男たちのにらみ合いとなっていた。
「おまえは――おまえは誰なんだ!!」
「おっ?」
 松山の目が輝く。
「いい質問だ」
「おまえらが一番気にしなくちゃならん所だな」
 これはこちら側での若島津の独り言。
「ピアスは――おまえのピアスはどうしたっ!?」
「俺のピアス? 冗談だろ」
 松山はにやっと笑うと、体半分よじ登って来ていた一番近くの男を蹴り飛ばした。
「おまえらもピアスを探してたのか? 俺もそうだぜ。ただし、そいつがくっついてる本 体のほうに用があんだけどな!」
 相手が日本語を解していないのは承知の上、蹴った勢いで自分もスライディングする。
「いよっと!」
 鉄棒の後転降りの要領ですとんとドアの開いた場所に体を落とし、後ろ向きのままシー トにみごとに着地を決めた。
「待たせたな。さ、案内してもらおうか、おっさん」
「う……!」
 がくん、と妙なギアの入れ方で車体を大きく揺すっておいて、車が急発進した。それを 阻止しようと腕を伸ばした男たちはことごとく弾き飛ばされる。
「あのバカ…!」
 思わず身を乗り出して若島津は舌打ちした。これでは松山まで見失ってしまう。
「ん?」
 一歩前に出掛けた若島津と、反転して人垣の後ろ側に駆けて行こうとした若い男が
肩同士をどしんとぶつける。男はそのまま野次馬をかき分けて走り去って行った。若島津 は松山を追うのを諦めたところで改めてさっきの男を振り返る。
「さっきの奴、なんか妙だな…」
 インドネシア語はもちろんわからない。だが、すれ違いざまに男がつぶやいた声が変に 耳に残ったのだ。若島津は周囲を見回したが、周辺にはバイクやベチャが何台か行き交っ ているばかりで、その男の姿はもう見つけることはできなかった。
「若島津くん――」
 翼が横から袖を引っ張った。松山が乗った車が走り去った方向を、じっと睨みつけてい る。
「今度こそ大丈夫。ナンバーしっかり覚えたよ」
「でも警察に言ってもしかたないようだぞ。かと言って三杉にご注進なぞしたら、あいつ 切れかねないだろうな」
「だからって黙ってたら、もっと切れるんじゃない?」
 若島津と、翼は目と目を合わせる。その様子を想像するのはやめたほうがよさそうだっ た。












 それより数刻前のこと。
「あれっ、ソリマチ、一人なのか?」
 アネカは家に入って来るなり不思議そうに声を上げた。
「うん、おかえりー」
「ほう、起きられるのか。よしよし」
 ベッドの中で自分で体を起こして食事中の反町を見て、アネカはにっこりした。
「オカユからゴハンに昇格したのはいいんだけど――これ、辛いよぉ」
「そうか?」
 反町がスプーンで食べているのは、シチューのように煮込んだものを米飯にかけた料理 だった。野菜と肉が入っているところは日本のカレーライスのスタイルだが、それよりむ しろ丼物、いやもっと正直に言うならネコ飯のイメージである。
「でもウマイんだよぉ。どうしてだよぉ…」
 日本語でぶつぶつ言いながら、しかし反町はなかなかの食欲を見せていた。アネカは満 足そうである。
「ばあちゃんの得意料理だな。ああ、それでばあちゃんは?」
「ええと、たぶんアレだよ。俺が飲むクスリ、さっき外で売り声みたいなの聞こえてさ、 おバアちゃん買いに出てったみたい」
「え、変だな。ジャムウのおばちゃんならさっき店に戻ってたけどなあ。ばあちゃん、ど こ行ったんだろ」
「ジャムウって何?」
 反町は食事の手を止めてきょとんとした。
「なんだ、知らずに飲んでたのか? あんたが毎日飲んでたの、ジャムウ屋のおばちゃん が症状に合わせて調合してくれてたんだぜ。薬って言うより、スタミナ回復の栄養ドリン クってとこかな。俺もよく飲んでるよ」
「えー、あれがそんないいもん? 人魚姫の足を生やす薬か、白雪姫のリンゴの毒なんじ ゃねーのぉ」
 あくまで自分をメルヘンのお姫様にしたいらしい。アネカは無言でぽりぽり頭を掻い た。
「でも、効いたろ?」
「う、うーん…。そうなのかな」
 手をぱっぱっと開いたり握ったりしてみる。確かに、頼りなかった指先の感覚も戻って 来ているようだった。
「それだけ食べられるなら、たいしたもんだよ」
「でも俺の脚、サカナになっちゃってない?」
 空になった皿を脇に置いて、反町は情けなさそうに上目遣いになった。
「こうずっと寝たきりやってると、人魚の気分だよ。自慢の足が泣くって」
「自慢の足…?」
「うん」
 反町はベッドに投げ出した足をそーっと動かしてみた。
「そのはずなんだけど」
「まあ、あせらなくていいよ。ゆっくりやんな。じゃさ、俺、これからそのホテルに行っ て知らせて来るから」
「うん、悪いねー、アネカ。ありがと」
「いいって。仕事がてらだしさ。ちょっと裏道を選んで行けばすぐだよ」
 市内の大通りからベチャを排除するという市の条例のせいでアネカたちの商売もやりに くくなっているらしかった。
「ちゃんとおとなしくしてなよ、ソリマチ」
「はーい」
 しかし反町の頭には別のことが浮かんでいた。
「やっと帰れそうだけど――今頃怒ってるだろーな、日向さん」
 怒っているのは日向だけではなかったのだ。









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