6章ー1






第6章
ベチャは走る












「今度はおまえがついてながら…!」
 日向の声はとことん低かった。ほとんど唸り声に近い。
「松山のほうは俺の管轄じゃありませんよ。翼のことは確かに俺の責任ですけどね」
 不動明王のごとく背後に炎を背負っている日向を前に表情一つ動かせずにいられるの は、長年の腐れ縁の賜物と言うよりは単に若島津本人の性格の問題だろう。しかも、相手 のツボをきちんと突いてくるあたり、悪質なまでの几帳面さだ。
「翼は俺の(責任)だ!」
 また吠える。しかしまんまと若島津の引っ掛けにはまったことに気づいて、日向はちょ っと意識が遠くなったようだ。彼の名誉のためにカッコ内を補っておこう。
「でも日向くん」
 目の前でそういう会話が交わされていても翼のペースは変わらなかった。
「隠しててもみんなにはわかっちゃうよ? 夕食に松山くんが現われなかったら、どうし たんだってことになって」
「それまでには回収する!」
 日向は不機嫌に宣言した。決意は立派だが、対象が四つ子の一人となると予定はあくま で未定となる。
「警察に通報しましょう」
 とりなすように若島津が発言した。今日その警察のやったことを一緒に目の当たりにし た翼がぎょっとなって振り向く。
「でもっ、若島津くん!?」
「圧力をかけておいたほうがいい。でないとこっちも最終手段をとる、ってな。これなら 警察も本来の職務を思い出すだろう」
「最終…手段って、何だ?」
 おそるおそる日向は尋ねた。世間ではよく誤解されがちなのだが、若島津の卓越した非 常識センスに比べると日向は良識の塊と言える。――ただし、サッカー以外の場面で。
「三杉を直談判に送り込むことですよ。一度切れたあいつを敵に回して、ただですむとは 思えない」
「そ、そいつぁ…」
 3人はそれぞれにその場面を想像して、一瞬だけ凍った沈黙が流れた。
 しかしそうは言っても松山のことをまずは三杉に報告せねばならない。
 ホテルまでたどり着いた翼と若島津は、そこに待ち構えていた日向に捕まり、さっそく 三杉の部屋に向かった。顔を出した三杉に、事の次第を一通り報告する。
「そう、わかったよ。君たちも大変な目にあったね」
 しかし三杉の返答はそれだけだった。取り乱したり騒ぎ立てたりするタイプではないに しても、細かく説明を求められると覚悟していた彼らは拍子抜けした思いで、あっさり閉 じられたドアを眺めたのだったが。
「三杉くん、あれから全然出て来ないね」
「あれは天岩戸ごもりだな。ああ見えて、相当腹立ててるに違いねえ」
 報告から小一時間。何の動きも見せない三杉に、彼らも不気味なものを感じ始める。
「そう怯えることもないですよ。あいつのことだ、今頃しっかりあちこちに手を回してる んでしょう。それともとっくに予測してたか」
「ならおまえが呼び出してみせろ。俺はごめんだからな」
「……」
 廊下を移動しながら若島津は横目で日向を見た。
「アメノウズメノミコトとアメノタヂカラオノカミ。俺の役目はどっちです」
「そりゃあ、おめえ」
 日向は息を吸った。頭の中で急いで考えているらしい。
「両方だ」
「ほう」
 若島津の目がきらりと光った。それ以外の反応はない。
「買いかぶっていただいて嬉しいですよ。でも、三杉は俺の力なんかでは動かないと思い ますけどね」
「じゃあ、誰が…」
 と言いかけた日向は、ふっと翼に目をとめた。
「ああ、なんだ、翼か」
 若島津はやはり無表情のままである。ちょっとかがんで翼の耳にささやく。
「そういうことにしとこう」
 翼はその顔を見ながら、東邦の名物コンビの絆の深さをあらためて実感する。
 しかし、日向が何と思おうと、三杉を動かせるのは三杉だけだった。














 アネカが出掛けた後、反町は完全に手持ち無沙汰となった。この家に自分一人残される というのはたぶん初めてである。アネカをはじめこの家の男たちは一日のほとんどを仕事 に当てているらしく、食事に帰る以外あまり顔を見せない。アネカの母や姉たちも日中は 代わる代わる留守をするので、ある時は何人もいた家族が別の時にはほとんど姿を消すと いうのもたびたびだった。これまで眠っている時間が長かったので気にとめなかったが、 結局アネカの祖母がその空白を埋める形でほとんどつきっきりでいてくれていたらしい。
 しかし反町はもう眠る気はしなかった。アネカの言う通りあのジャムウとかいう薬の効 果か、熱っぽさもだるさもあまり感じなくなっている。
 そうなると思い返してしまうのはパサールで捕まって連行された先のことだ。
「くっそー。まったく麻酔とはやってくれるぜ。俺を誰だと思ってんだ!」
 岬のつもりで彼らはさらってきたはずである。しかしそうだとすると、ひとつ気になる ことがあった。
「ピアスが――どうとか言ってたけど」
 それについてはまったく心当たりがなかった。そもそもこのピアスにしても、生まれた 場所でたまたまそういう風習があっただけでそれ以上の意味はないはずだ。
『――ま、いいから着けてれば』
「おやじ……」
 反町の頭にふと父親の言葉が浮かんできた。小学生の時に日本に帰国して――というよ り彼にとって初めての日本に戻って、周囲の子供たちの誰も着けていないことに疑問を持 った時だったと思う。
『そいつはおまえが赤ん坊の時に俺の知り合いのエライ人がプレゼントしてくれたんだ。 あの国の人たちは、子供が生まれると、丈夫に育つようにってお祝いの品にするらしい よ』
 父親はそう説明した。
『ま、いいから着けてればいいさ。嫌になるまではね』
 外国育ちということは、ピアスに限らず何かと「違い」をもたらしたが、しかし反町に とってはそのすべてをひっくるめて当たり前の自分でしかなく、結局その父の言葉がなく ても彼はそのありのままをよしとしてきたのだ。
 なにしろ家族はみなあの通りだし、学校もさすがに帰国子女に慣れた東邦学園だけあっ て特に咎められることもなかった。何よりも反町の順応性は神業の域に達しており、自分 の特異性と一般性のバランスをとることなど、たやすいことだったのだ。
「今さらこのピアスに因縁つけるやつが現われるとは思わなかったな」
 ただの因縁でなさそうなのは確かなのだが、本人気にしていなかったものにいきなりス ポットを当てられても困るのである。
「とにかく、問題は岬だ」
 反町は必死に記憶をたどってみた。
「やつらが岬を狙う理由が何なのか、だよな。邪魔だから消す、ってのなら脅迫状だの厄 介なことを持ち出さないだろうから、やっぱりあいつの利用価値目当て、ってことになる わけだ」
 マダム・ブルーとの契約。確か、男たちはそう言った。
 岬が研究のターゲットとしていた相手。繋がりの深い関連企業をつつくことでそれ相応 の反撃があると、覚悟は十分決めていたはずだ。
「先手を打って岬を押さえ込む準備を固めてたってことかも」
 岬に依頼されたのはあくまでも侵入のノウハウに過ぎない。それを駆使してどこまで行 こうとしていたかを知るのはもちろん岬自身だけだ。しかし、その目指す領域が「死地」 となりかねない危険なものだということは彼も承知している。だからこそ今回の依頼もあ ったわけで、反町もこれに加担することにジレンマがあったのは事実なのだ。岬を、そん な所に行かせてもいいのか、と。
 この腕を岬に評価されるということが実際にどういう意味を持つのか、彼はもちろん承 知していた。
「あいつ、無事なのかな。連絡、できるといいんだけど」
 たった一ヵ所、岬と繋がりを持てる場所が確保してある。しかし自分の今の状況ではど うしようもなかった。
「ソリ、マチ?」
 いきなり呼ばれて、はっと我に返る。いつの間にそこにいたのだろう、部屋の入り口に アネカのたぶん姪っ子がカバンをたすき掛けにした姿で立っていた。学校から帰って来た らしい。
「どしたの?」
 反町が声を掛けると、女の子はちょっともじもじと後退りした。よく考えると、この外 国人のお兄さんと直接話すのは初めてになる彼女である。しかも言葉も通じない。
「――nenek」
「ネネッ…?」
 女の子の言葉の中で、一つだけわかる単語があった。
「オバアちゃんが、何?」
 そう言えば薬を買いに出たにしては遅すぎる。食事途中だった反町をいつまでも放って おくこともありえない。
 女の子が何かを伝えようとしているのはわかった。が、こうしているだけではどうにも できない。
「歩けるかな」
 すぐそこの店、と言ったアネカの言葉を思い出して、反町はそろそろとベッドから足を 下ろした。
「なんだ、けっこう歩けそうじゃん。さすがは鍛えてありますねえ、反町くん」
 自画自賛しながらゆっくりと試し歩きをしてみる。しかし日頃鍛えてあるほどこの後地 獄が待っていることを反町はこの時まだ知らなかった。
「ジャムウ?」
 と言ってみると、ちょっと心配そうに見守っていた女の子は意を得たように先に歩き出 した。当たりらしい。
 薄暗い家の中から外に出ると、さすがに目がくらんだ。日は高く、路地のアスファルト はぎらぎらと眩しく反射している。反町は一瞬ためらったが、向こうで手招きしている女 の子の所までは確かにほんの数軒分の距離だった。
「おや、あんたがアリかい」
 ジャムウ屋のおばさんは、まさにそういう顔で反町を迎えた。その言葉の中に聞こえた 『アリ』という単語だけでそれを察したわけだが。
 洋服を着ているアネカの家の女性たちに比べて服装が民族衣装っぽい。派手というので はないが、腰に巻くタイプの足首までのスカートも、アジア独特の色と模様をしていた。
「ども、お世話になりまして」
 地元民でないことをアピールするためにも日本語で礼を言うと、おばさんはちょっと照 れたようににこにこする。通じているようだ。
「俺、どうもさっきからテレパシーが使えるようになったみたい。ホームステイの成果か な…」
 おばさんと女の子がやり取りしている横で、反町は今度はその店を観察し始めた。ほと んど屋台に近いようなオープンさの店先を熱心に眺め渡す。
 壁沿いの棚にぎっしりと小さなパッケージが並び、奥の一角にある簡単なカウンターで ここで飲んで行くことも出来るようだ。今も客らしき男が一人、暇そうに小さなテレビを 見ていた。
 土間に置かれたカゴには、それぞれ何やら怪しい色をした液体入りのガラス瓶やペット ボトルが、年季の入ったコップと柄の長〜いお玉のようなものと一緒にぎゅう詰めになっ ている。どうやらこちらは行商用のワンセットらしかった。おもちゃのバケツのようなも のが側にあって、なぜか中にはタマゴの殻なんかが見えていたりする。
 壁板に何枚か貼ってあるポスターにはどれも女性の体のシルエットなどがさまざま描か れていて、これまた妖しい。いや、怪しい。確かにその中の一枚にはJAMUという文字 が読み取れた。
「わ、わかんねー」
 自分が飲まされてきたモノの謎を知ろうとして、余計に疑問を増やしてしまった。実際 にジャムウおばさんがそれらの瓶から目分量であれこれ混ぜ合わせる様子を目撃していた なら、悩みはもっと深くなっていただろう。
「……」
 シャツのすそをつんつんと引っ張られて反町が振り向くと、女の子がもう一人増えてい た。さっきの子と同じ制服に同じ顔――姉妹のようだ。イトコかもしれない。
「おバアちゃん、ここに寄ったのは確かだよな。その後で何かあったってわけか」
 女の子たちの表情を見る限り、差し迫った事態と言うほどでもなさそうなのだが。
「おーい!」
 そこへ、聞き覚えのある声が近づいてきた。
「ソリマチ! あんた、ほんとにソリマチだな?」
 アネカであった。空のベチャを猛スピードで走らせて来ると、店の前で急停止する。
「何だよ、アネカ。びっくりするだろ」
「びっくりはこっちだよ!」
 アネカはまだぜいぜいと息を切らせている。
「あんたさ、ずっと家にいたか?」
「――え?」
 アネカに借りたTシャツをパジャマ代わりにしていた反町は、実はそのまま外に出て来 ていたのであった。しかしアネカが上から下までじろじろと反町を眺めてしまったのはそ のせいではない。
「ほら、頼まれたホテルに行く途中で、見たんだよ! 俺、もうびっくりしてさ…」
 動転して、確認しに戻って来てしまったらしい。反町の目に、きらきらっと好奇心が灯 った。
「――俺、そこに何人いた?」
「はぁ?」
 まだ全部説明し終わっていないのに反応されて、逆にアネカのほうがあっけに取られた ようだ。
「一人だよ、もちろん。いやそれがすごい騒ぎでさ。警察の近所なんだけど、高級な車を ぼこぼこにして暴れてんだ。――そのぉ、あんたと同じ顔をした奴が…」
「――光かぁ」
 詳しく聞くまでもなかった。
「少しは平和におとなしく待ってるとかできないのかねー、あいつは」
「で、あんたは何してるんだ。寝てなくちゃ駄目だろ」
 日本語での独り言はわからないながら、なぜか見事に痛い所を突くアネカである。
「それが…」
 反町は側の女の子たちを見下ろした。
「オバアちゃんが出てったきり戻って来なくてさ。んで、この子たちがジャムウ屋さんま で連れて来てくれたんだけど…」
 反町自身わかっていないままの説明ではわかりっこない。アネカは女の子たちと言葉を 交わして、それからジャムウ屋のおばさんにも確認を取っているようだった。
「変だな」
 アネカは反町を振り返った。
「ばあちゃんはこの店に来て、ジャムウができるまで待ちながらテレビを見てたんだっ て。その後、急に出てったらしいよ。ちょうどこの子たちが通りかかったんで、すぐに帰 ってあんたの世話をしておけなんて言ってたって――」
 アネカは首をかしげた。
「おばちゃんによると、来週の国際会議のニュースだったらしいけど、困ったなあ。また いつものボケかな」
「いつもの、って?」
「ばあちゃんさ、あっちのアラビア半島とかの話にすごく神経質になるんだ。ほら、昔出 稼ぎに行ってたろ。何か思い出すんだろうな。一人でぶつぶつ意味のわからないことを言 い出したりするんだよ」
「へえ〜」
「とにかく探さないと。乗って」
 アネカはベチャを手振りで示す。反町にとって、ベチャ初体験ということになった。








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