6章ー2















「わーっ、こりゃあ、すごいや」
 ベチャは案外スピードが出る。スタートしたとたん、反町は座席にひっくり返りそうに なってあわててしがみついた。
「で、おバアちゃんが出稼ぎに行ってたの、どこなんだ?」
「クウェート」
 頭上から、アネカは大声で答えた。
「クウェートで、住み込みのメイドをやってたんだ」
「えっ…?」
 意外な答えに、反町は忙しく頭を巡らした。
「インドネシアからクウェートって、そんな遠くへ?」
「珍しくはないよ。クウェートやサウジに出稼ぎに行くのって男も女もけっこういるから な。うちの親方の親戚なんて、メッカにも行ったハッジなんだぜ」
 なるほど、距離は遠くても同じイスラム国。豊かな産油国への労働力の流れは、たとえ ば東南アジアから日本を目指す人々がいるのと同じ状況なのだろう。反町はアジアの顔の 多面性を改めて思い知らされた気がした。
「でー、これからどこいく気?」
 反町はベチャに慣れてくると座席周辺を熱心に観察し始めた。珍しいもの好きはいつも のことである。
「もう一人のあんたがいた所さ。もっとも今もいるかはわかんないけど」
「うんうん」
 反町は手を伸ばして幌屋根を触ってみる。ちょっと乳母車に似ているかもしれない。雨 の時に下ろせるように、幌の半分ほどは巻き上げて留めてあった。座席は詰めて大人2人 座れるくらいの幅がある。座席部分は両側に車輪があるので、ベチャ全体は逆三輪車のか っこうになっていた。幌の隙間から後ろを覗くと、キャップをかぶったアネカはペダルを 踏みながら困ったような笑顔を見せた。
「母さんに怒鳴られるよ。あんたを外に連れ出したなんてバレたらさ。ほんとに、大丈夫 かなあ…」
「アネカのせいじゃないだろ。俺が自分で出て来たんだ。それに運転手つきの外出だも ん。ベッドにいるのとほとんど同じだって」
 気楽なのはいいが、どう見ても同じとは言えそうにない。これまで同じ天井を見上げる ばかりだったのが、今は賑やかな騒音と刺激的な光景に囲まれているのだ。身を乗り出し てきょろきょろしている反町に、アネカはますます心配顔になっていった。
「あ、あれなに?」
「ジュース売り」
「欲しい!」
「はいはい」
 観光ガイドをしている場合ではないのだが、病人だと思うとアネカもさすがに弱かっ た。言われた屋台に寄せて、ベチャにまたがったままジュースを買う。
「すごい、袋入りだぁ!」
 なんと絵の具を溶いたようなピンク色の液体が透明なビニール袋に入っていて、ストロ ーを1本差した口が輪ゴムで留めてある。ジュースと言っても、何らかの果汁だとはとて も思えない色つきの甘い水。これである。しかもタピオカの白いつぶつぶが少々入ってい て、もはや正体不明以外の何物でもない。反町が面白がったのなんの。
「また熱射病で倒れないように、水分はしっかり摂るんだぞ」
 でもどうせ飲むならもう少し普通の水分がいいと思うんだけど、とアネカは内心つぶや いていたのだが。
「そっか、俺さ、アネカが見つけて助けてくれたんだよね。あれってどのへんだった?」
「ああ、運んだのは俺だよ。でも見つけたのはばあちゃんなんだ。あの日もばあちゃんに しては遠出したらしくて、あんたが倒れてるのを見つけて俺を呼び出したんだけど、俺も あまり知らないあたりだったんだよな」
「ねえ、そこへ連れてってくれないかな」
「ああ、いいよ。ここからなら近い」
 アネカはそう答えてふと顔を上げた。道の反対側からアネカに向かって何か大声を出し ている男がいる。同じベチャ引きだ。アネカは手を振って応える。
「取り締まりだってさ。国際会議とかのたびに警官が増えて、厄介ったらありゃしない。 この先ちょっとヤバいって言ってたから、脇道から行くよ」
「うん」
 仲間同士の情報網はなるほど万全らしい。
「うわあ、ここも市場(パサール)!」
 細い道からさらに細い道へと入って行く。そのたびに車は減り、バイクや自転車が取っ て代わっていった。
 赤っぽい瓦屋根の軒と軒がくっつくようにして続いている。民家なのか商店なのか区別 がつかないほど人が群れ、縁台のようなものに座りながら数人で話にふけっていたりす る。その脇では小さい子供がわらわら走り回っている。
「なんか、俺、こういうの見たことある気がする、どこかで…」
 そういうのをデジャヴと言うのである。
「そうだ、親父の…!」
 日本のことを何も知らずに暮らしていた子供の頃、反町に日本を教えたのは父親がコレ クションしていた古い邦画のビデオだった。
『俺が学生の頃から憧れてた女優なんだ』
 とかぬけぬけと言っていた父親はともかく、そのモノクロの画面の印象は今もしっかり 残っている。当然ながら実際の日本を見た時にそのギャップに大いに驚いたわけだが、幼 い時期に繰り返し繰り返し見続けたのだ。後遺症と言うべきか、植えつけられたイメージ は自分の記憶のようにさえ感じられるほどだった。
「タイムスリップだねー、さしずめ」
 反町は素直に感心した。
 高層ビルとハイテクの街とは背中合わせに、こういう昔ながらの生活が営まれている。 ネクタイ姿のビジネスマンがエアコンの効いた自家用車を乗り回す一方で、天秤棒をかつ いだ物売りが路地から路地へ売り声とともに歩いている。
 どちらかが陰で、どちらかが負(マイナス)で、というのでなく、その両方、その全部 をひっくるめてジャカルタの現実、アジアの現実なのだろう。猥雑で、崇高で、悲しいよ うで、面白い。
「アネカさあ…」
 反町はぼーっとした顔でつぶやいた。
「この街って、花火大会みたいだね」
「なんだい、それ…」
 アネカはぐーっとハンドルを切ると、並木のある静かな通りへと入って行った。
「この先だよ。ほら、あの信号のちょっと手前の植え込みあるだろ、あの陰に倒れてたん だ。……うおっとぉ! 嘘だろ!」
 インドネシア語で叫び声を上げたアネカに驚く前に、ベチャの急停止に思わず振り落と されそうになる。座席にしがみつきながら前方に目をやると、そこに見えたのはアネカの 天敵たちだった。
「ソリマチ、逃げろ!」
 そう言えば、反町の天敵でもあったっけ。
 慌てていたのはアネカだけではなかった。ベチャは近くにも2、3台走っていて、同じ ようにひっくり返りそうになりながらUターンしたりスピードを上げて逃げようと大混乱 になっている。
 実はこのベチャ、たいていの場合ベチャ引きの私物ではない。親方からレンタルする形 で商売しているのである。だから警察に没収などされれば、今度は親方に弁償金を払わね ばならない。多くは地方から出稼ぎに来てギリギリの暮らしをしている彼らにとって、そ れは絶対に避けなければいけないのだ。
「後できっと迎えに来るから、そこらでじっとしてな!」
 軽くなったベチャで逃亡するアネカの声を背中に聞きながら、反町はあたふたと通行人 の間に潜り込んだ。借りたTシャツにゴムぞうりという姿が幸いしてか、地元の皆さんと すぐ同化できそうだった。すっかりカメレオンである。
「この通りも禁止なのかぁ」
 スタジアム近くの何車線もある大通りならまだわかるが、ここは特に幹線というわけで もなく、ただ、この通りを境に大きな建物が増え、途中通ったパサールの地区とは一変し た高級感のある地区に入った感じはした。
「おやまあ」
 伸び上がって見てみると、逃げ損ねた1台が引っ張りっこになっていた。ベチャ引きの おじさんと警官2人。おじさんは必死の形相である。警官の片方が応援を呼ぼうと振り返 った隙に火事場のなんとやらでついに振り切り、一目散に走り去る。警官たちはまだ何か 怒鳴っていたが、それ以上追おうとはしなかった。徹底的に取り締まるというよりも、警 告の意味が大きいのかもしれない。ベチャはまだまだ数も多いし、主婦をはじめとする市 民からの抵抗が強いうちはそうそう一方的に排除するというわけにもいかないのだろう。
 反町はそれでもアネカやその同業者たちがまんまと逃げおおせたことにほっとした。 と、その警官たちの一人とぱちっと目が合ってしまう。はっと気づくと、さっきまでここ に溜まっていた通行人はベチャ引きの災難など珍しくもないという感じで皆消えており、 反町一人がそこにぽつんと残っていたのである。
「は、はははは…」
 そーっと後ずさりしながら逃げ道を探す。しかし、本当は先に動くべきではなかったの だ。カメレオン効果は警官たちにも波及していた。日本人に見えない、とアネカ一家の皆 さんにお墨付きをもらったのに、すっかり忘れていたのか。
 とりたてて目立つわけでもなかった若い兄ちゃんが、一転して「怪しい奴」となってし まった。
「待てーっ!」
 警官たちは新たな対象を得て再びテンションを高めてしまったようだ。2人と言わず、 その向こうからもさらに2、3人が合流して突進して来る。
 反町がとっさに目指そうとしたのは、もと来た道、つまり路地のほうだったが、車道を はさんで反対側に立っていたため、やむなく並木道に沿って走り出す。しかしこれはなん とも見晴らしの良すぎるコースだった。
 車道と歩道の区別はしっかりつけてあり、そればかりかその間に緑の分離帯という感じ に芝生の植え込みが続いている。道の両側の住宅は、あくまで高級そうな白亜の建物だっ た。
「金持ちはとことん金持ちにできてんだなぁ、ここって」
 社会科見学をしている場合ではない。しかし現状把握は危機脱出への第一歩でもある。 反町は左右に目を配りながらさらにスピードを上げていった。その瞬間、バランスが崩れ る。
「――う!」
 ちょうど向こうから屋台が一台近づいて来ていた。すれ違いざまいきなりバッタリ倒れ た反町に驚いて呆然と立ちすくむ。俺のせいじゃないぞ、とでも言うようにおろおろと周 囲を見回している。
「う…く、くくく」
 しかし反町は屋台のおじさんの当惑をよそに、苦悩の表情で歩道の上をクロールしてい た。つまりホフク前進というやつである。そうして勝手に屋台の陰に這い込んで、なんと か警官たちからの死角に入った。
「こっちだ、上、上。――早く!」
 頭上から声が聞こえてきたのはまさにその時だった。









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