6章ー3















「おまえもバカだよなあ。知らないのか、犬と警官は逃げる奴を追っかけたがる、って の」
 目標を失った警官たちの足音を下に聞きながら、松山は心底楽しそうに言った。いやな に、野次馬として見ている限りは実際楽しかったのだ。
 反町にはそのことが――もし耳を塞いでいたとしても――ひしひしと伝わっていた。ほ どんど腕の力だけでよじ登った木の上は正直言って安住の地とはほど遠く、追っ手が完全 に立ち去るまでこの姿勢で耐えられるかが一番の問題だったのだが。
「違うよ。ほら、リハビリにさ、ちょいと軽くランニングしたくなっただけだってば。逃 げてたわけじゃないからー」
「ん、リハビリ?」
 ウォーミングアップなしの全力疾走をして、その当然の結果として両足にケイレンを起 こしてしまったというのに、口だけは減らない様子である。そんな反町を、松山は別の枝 からまじまじと眺めた。
「そう言えばおまえ、なんだか…」
「そ、そーなんだよ、光。俺さ――」
 丸3日間の失踪であった。これと言った手掛かりもなく、できるのは警察に揺さぶりを かけることだけ、という状態だったわけだが、当人である反町にとっては文字通りハード な体験だったと言える。
「すっかりインドネシア人になっちまったな。変装、完璧だぜ」
 重ねて言うが、松山は嘘の言えない体質である。その素直な本気が、時として凶悪な武 器となることだってあるのだ。
「お、おまえな――」
 反町は間一髪のところで枝からの墜落をこらえて、再びしがみつき直した。しかし松山 は容赦がない。
「それにちっちゃくなって」
「痩せたんだよっ! 昨日まで流動食だけだったんだから!」
「でも、よかった」
 ちぐはぐに互いに言いたいことだけ言い合う不毛な会話はともかく、二人の結論は同じ だった。
「翼なんか責任感じちまって、毎日そこらを探し回ろうとするから冷や冷やだったぜ」
「――バカだよなぁ、あいつ。責任なんて。俺のことはなんだって俺のせいなのに」
 岬に化ける、と決めた時点で、何らかの実力行使も受けることは覚悟していたのだ。そ れが予想よりも早まってしまったというだけだった。
「で、俺のことはともかくさ、なんだっておまえ、木の上になんていたわけ? 確か、公 衆の面前で派手な暴力行為をしてたって聞いたけど」
「よく知ってんな」
 松山は自分のことについてもあっさりしたものだった。
「追っかけっこにも飽きちまってな。ここは休憩にぴったりだったんだ。涼しいし」
 松山は今日の楽しいパトカードライブと、それをお膳立てしてくれたハディナタ警部の こととその直後の襲撃について説明した。
「ええっ、警察がぁ?」
「とにかく、俺は道連れのおっさんを車ごと適当にほっぽいておいて陰で見張ってたん だ。仲間連中がいずれ追いついて回収していくだろうって思ったからな。で、案の定、や つらは合流して帰ってった」
 松山に尾けられているとも知らずに。
「知ってるか? こーんな形の国旗(ハタ)が立ってるでかい建物だ」
 反町はこくんとうなづいた。
 ジャカルタの官公庁とそれに類する施設では、その敷地に必ずインドネシアの国旗が 高々と揚げられている。白地に赤く、という日本と同じ配色のシンプルな国旗は一見して 見間違えることはない。(ポーランドやモナコ公国などは別として) だから松山の指摘 した場所は明らかにそれ以外の国の、しかも公的施設ということになる。
「実は、最初に俺が連れてかれたの、そこなんだ」
 ジェスチャーで国旗の図柄を表現するという松山の大胆さを責められないその独特のデ ザインは、反町のぼんやりとしていた記憶の奥にあったものと一致した。
 一口にイスラムと言ってもその範囲は広い。いわゆるイスラム圏はここインドネシアを 東の果てとして西の果ては大西洋に面するモロッコまで、軽く地球を半周してしまう。中 東と呼ばれ、アラブ諸国と総称される地域はその中の一部でしかないのだ。
「じゃ、おまえ、そこでボコボコにされたんだな?」
 期待に満ちた目で乗り出してくる松山に、反町はため息をつく。
「違うよ。むしろそこで素直に監禁されてたほうが無事にすんでたかもね。精神的にはど うか知らないけど」
 どうか知らないのではなく、知っていたからこそ強引に逃げ出したのだ。岬を狙ってい たはずの彼らが、反町自身に干渉を始めそうな状況を見て取って。
 しかし、その前に打たれていた鎮静剤の一種か何かの作用で朦朧となったまま強引に動 いたせいで反町はどこか路上で意識を失ってしまった。あの炎天下で長時間太陽にさらさ れて、アネカに拾ってもらわなければそのままカエルの干物になっていたはずである。
「これは俺たちの個人的な疑問だけどよ」
 俺たちとは、もちろん自分と三杉の二人である。
「そいつらがさらってったのは『岬』なのか? それとも『おまえ』だったのか?」
「え……」
 自分も密かに引っかかっていた部分に、いきなり真面目な口調で触れてきた松山に、反 町はたじろいだ。
「淳は頭に来てるぜ。おまえが肝心なことを黙ってた上に何かとはぐらかし続けてたせい でな。俺一人じゃとてもなだめきれないな、あれは」
「お、おどかすなよぉ」
 三杉の恐ろしさというのはもちろん日向とはまったく種類の違うもので、反町もそのこ とは骨身にしみて知っていた。しかも心当たりは言われなくても山ほどある。
「まず、おまえのゲームは既に没収されている」
「う!」
「岬の証言で、道案内人の正体も明らかになった」
「ひーっ!」
「それと――」
 松山は指をまっすぐに伸ばし、銃のように反町に向けた。
「おまえの親父さんだ」
「なんだって?」
 反町はきょとんとした。これは心当たりのうちにまったく入っていなかったのだ。
「おまえらの共謀を調べるために、岬が集めてた資料を片っ端から覗いてたら、おまえの 親父さんの名前が妙なところで見つかってな。今度の件の肝心なところで、時期も場所も 符合するんだ。――で、親父さん、なんで国外追放になったんだ?」
「な、何だよぉ! 話、はしょり過ぎ! 岬の資料って、父さんと岬クンのどこに接点が あるわけぇ?」
「そいつを知りたいんだ、俺たちもな」
 松山は枝の上に立ち上がり、反町のいる枝に向かっていきなりジャンプした。一定時間 以上じっとしているとポーズボタンが自動解除されるタイプらしい。
「こっ、こんな時にサーカスはやめろよっ!」
 自分に襲い掛かってきたのかとパニックになりかけた反町をしり目にその一つ下の枝に くるりと飛びつき、松山は逆さににやりと笑ってみせた。ぶら下がったまま、指で合図す る。
「ほら、お迎え」
「――あ、アネカだ」
 約束どおり探しに戻ってきたらしいアネカのベチャが下の車道に見えていた。もう安全 ということらしい。









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