ザ・プロミスト・ランド





◆第3章◆









「加西さん、すいません、ちょっと…」
 コントロール室の1つから、ミキシング・エンジニアが顔を覗かせて手を振 っていた。顔色がよくない。
「どした?」
 遠野と若島津と3人で戻って来たところである。レコーディングはあの後再 開されていたはずだが。
「さっきの中断したトラック3を再生してたんすけど、妙なものが入ってるん です。…いえ、そう聞こえるっつーか」
 若手のエンジニアは明らかに動揺していた。言葉を濁し、とにかくという感 じで加西を急がせる。
 コントロール室の機器を示し、エンジニアは加西にヘッドホンを渡した。再 生のスイッチを入れ、不安そうにその顔を見守る。
「妙って、どのへんだって? ――ん、あれ?」
 反射的にヘッドホンに手を添えて、加西は首を傾けた。そうしてゆっくりと 視線を回してエンジニアと目を合わせる。
「今、なんか…」
「ねっ、聞こえたでしょ? あれって、まさか…」
 話の見えない若島津であったが、遠野のほうは何か心当たりがある様子を見 せた。
「加西さん、もしかして例の噂の、ですか」
「うーん…」
 ディレクターは顔をしかめてうなづいた。
「あくまで噂だと思ってたんだが、これはなあ…」
「なんです、一体」
「あ、ああ」
 若島津に促されて、遠野は口を開いた。
「ここのスタジオにはずっと噂があってね、ほんの時たま、録音したものに変 な声みたいなのが紛れ込むことがあるって」
「怪談、ってわけですか」
 遠慮のない若島津である。
「俺も聴いていいですか」
 平然と手を伸ばす若島津に、エンジニアはまた怯えた表情になった。
「この、フィルインの入るはずの、ベースが切れるところ…」
「あ!」
 一緒に聴いていた遠野が小さく声を上げた。若島津も眉を寄せる。
 その声は高く細く、ほんの2、3秒ほど響いて消えた。女の、または子供の 声のようにも思えたが、そう言い切るにはあまりに短かった。だが、少なくと もデジタルノイズではありえない、何か情感とでも言うべき不安定さがある。
 遠野は、ヘッドホンを外しながら、独り言のようにそうコメントした。
「や、やですよ、そんな…」
「俺だってやだよ。自分で聴いたのは初めてだしなあ」
 さらに青くなるエンジニアに、加西は困ったような目を向けた。
「ほんとにこんなのがあるなんてな。――お祓いでもしてもらうか。なあ、遠 野くん」
「んー、まあ気休めにはなるでしょうがね」
 遠野のほうはさほど怖がる様子はなかった。むしろ日頃からここを職場とし ているスタッフのほうがショックが大きいのだろう。無理もないが。
「もしかして、あの歌がいけなかったかな。『たちわかれ…』の」
「え、なんでだ?」
 加西が目を丸くしたので、遠野はちょっと苦笑気味にうなづいた。
「さっき説明の途中でしたよね。あれ、百人一首の中の歌ですけど、おまじな いとしても使われるって、俺、聞いたもんで、そこから思いついたんですよ、 剛を呼ぶためにね」
「おまじない?」
 話が兄と繋がってきたので、若島津も加わる。
「あのさ、飼ってる猫が突然いなくなること、ありますよね。そのへん探して も見つからない、いつまでたっても帰って来ない…って時に、この歌を紙に書 いて、猫が使ってたエサの皿を伏せてその下に敷くんだって。猫寄せのおまじ ないだね。それを剛に当てはめたら面白いかなって、思ったんですよ。実際に 効果があったらもっと面白いし」
 どうやら相当面白がり屋らしい遠野である。
「オカルト趣味はいい加減にしてほしいなあ…」
「そうかな。オカルトってほどじゃないだろ。おまじないはおまじないだよ」
 そう愉快そうに言いながら遠野はヘッドホンを置いた。
「君も聞こえたよね、健くん」
「ええ…」
 遠野の問いにうなづきつつ、若島津の思考は既に別の方向に向かい始めてい た。声の正体を手探りでたどるように。
 さっきスタジオで感じた気配。意識の奥に浮かんだ少女の姿。
 どこか見覚えのあるようなあの眼差しは、何だったのか。
 そして今聞いたテープの中のあの声。
 それらが畳み掛けるように若島津の意識にささやく言葉に変わっていく。
――わたしはあなたを知っている。あなたもわたしを知っているの。
『知らない。君は誰なんだ…』
 少女は答えない。その姿もはっきりはしないまま霞んでいく。
 どんな顔…、どんな声?
「あ!」
 視界の端を、さっと白いものが横切ったような感覚があった。
 その瞬間、若島津は自分の思考から覚める。
 遠野が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかしたかい?」
「――いえ」
 気配はまだそこにあった。
 声のない声。姿のない姿で。
――わたしはここにいる。
 若島津は静かにぐるりと部屋を見渡した。
――じゃあ、あなたはどこにいるの?
「俺は…」
 知らず、口の中で小さくつぶやく。
 音楽だけが、そこには流れ続けていた。








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