ザ・プロミスト・ランド










「いなばやま、ってタイトル?」
 裄広はヘッドホンで自分の演奏をモニターしながらディレクターを振り返っ た。
「ああ、遠野くんはそう言ってたけど。だってさ、『たちわかれ』じゃ演歌み たいだろ?」
「どっちもどっちだよ」
 自作曲なだけに裄広も簡単に首は振らない。こういう周辺部分の調整も含め てレコーディング作業は進んで行く。作曲者の意見、演奏者の意見、ディレク ターやエンジニアの意見。それらが出たり引っ込んだりしながら常に流動的に 変化していくのだ。
 若島津は側で話を聞きながら、そういう意味ではサッカーと共通点がなくも ない、などと無責任に考えていた。
 見学すると言ったはいいが、今日の故障騒ぎとそれに続く謎のノイズ事件の フォローのためにスタッフの半分近くが予定外の作業に追われ、ますます若島 津をかまう余裕はなくなっている。
 それをいいことに、若島津は勝手にそこらを動きながら自分の探し物を続け ていたのだったが。
 リズムパートだけでも何トラックも録音される。そのテイクが次々に届くの を一番にチェックする役を若島津はこの場所で引き受けている。とにかくアシ スタントエンジニアのお兄さんが例の「声」にすっかり怯えてしまったため に、まずはその手のノイズが入っているかいないかをお試しする必要があった のだ。
「これも普通ですよ」
 若島津はエンジニアに合図する。その声に、同じ部屋の向こう側にいた裄広 が振り向いた。
「なあ、今日取材が来ただろ? 遠野のやつ、君がこの歌のボーカルやるって 言っちまったんだって?」
「冗談は内輪だけにしておいてほしいですね」
 むすっとした顔で若島津はうなづいた。
「俺さ、誰かに聞いたことあるんだけど、サッカーのゴールキーパーってすご く声がでかいんだって?」
「俺がキーパーなのを疑ってるんですか」
 無口には定評のある若島津だが、初対面の人間にもそこを突かれるとはさす がである。
「疑ってはいないけど。ちょっと聞いてみたいもんだなーって」
「そういう状況になればちゃんと声は出ますよ」
「ふーん」
 今朝恐ろしい目にあったことを忘れたのか気にしていないのか、裄広はまだ 惜しそうな顔を隠さなかった。
「おーい、ユキヒロ」
 モニター室のドアが開いて、加賀美が顔を出した。
「勢至から電話だって。遠野が外してるから、おまえ聞いといてくれよ」
「えー、おまえは?」
 子機を渡されて、裄広は怪訝な顔をする。
「俺は次のテイク、すぐなんだ。頼むな」
「はいはい。…おー、勢至、待たせたな。こっちも待ったけどさ」
 突っ立った髪が、うなづくたびに小さく揺れる。裄広はかなり一方的にしゃ べりまくっていた。主にレコーディングの進行状況についてらしかったが、合 間に、だからおまえのドラムが…などと言っているところを見ると、催促もか なり混じっているようだった。
「で、なんだって?」
 裄広が電話を切ったと同時に、ディレクターの加西は声をかけてきた。
「明日の飛行機に乗るそうです。遅くても夕方にはここに来られるって。これ で俺の仕事も少しは楽になるぞー」
「そりゃあ良かった。少しでもスケジュールを取り戻せるな、これで。でもユ キヒロくん、君の仕事はそう簡単には減らないよ。ホーンを使うのがあと2、 3曲はあるからねえ。こっちも急いでもらわなくちゃ」
 リズムギターが担当だったのは剛'S クルー時代のこと。実はもともとホーン セクションが本職なのだった。
「…う! そりゃないっすよ〜」
 ぱたん。
 それは、何かが床に落ちたような音だった。
 大声を出していた裄広が、ふと言葉を切って振り向く。
 若島津は同じく顔を上げたが、こちらは少しニュアンスの違う表情になって いた。
 ぱた…ぱたん。……ぱたん。
「な、なんだぁ?」
 ディレクターも椅子から立ち上がった。聞き違いなどではない。音ははっき りとしているのに、聞こえてくる方向がつかめないのだ。きょろきょろと見回 したはずみに会議テーブルの上にあったグラスが床に転がり落ちてしまった。 ガラスの割れる音が鈍く弾けて、まだびくっと身を固くする。
 だが、その現実の音とは明らかに異質な響きで、物音はなおも続いていた。 「これ――どうなってんのぉ」
 裄広の顔がひくひくっと歪む。
 がたんっ! と、今度はもっと大きな音に飛び上がる。はっと4人の視線が 集まった壁際の片隅で、パイプ椅子が倒れていた。誰も触ってなどいないその 場所で。
「うわ〜」
 裄広はそれを見るや、ぱっと部屋のドアに走った。
「誰か、ちょっと、こ、こ…、大変だよぉ〜!」
 廊下にはスタッフが数人スタジオを行き来していたが、その声にがやがやと 集まってきた。裄広のその只事でない様子に顔を見合わせたり、モニター室を 恐る恐る覗き込んだりしている。
「偶然にしちゃ、続くよなあ」
 ちょうど打ち合わせから戻った遠野が、話を聞いて首を傾げた。
「やっぱりお祓い、しましょうよー」
 割れたグラスを空き箱に集めて入れながら、アシスタントエンジニアが情け ない声を出す。そこに来た掃除のおばさんがそれを受け取ってごみコンテナに 入れ、同情したようにうなづいていた。
「ねえ、ここ、濡れてますけど…」
「ひっ…!」
 気の毒に、音もなく背後に立つ若島津の性癖になれているはずもない裄広 は、今度こそ飛び上がりかけた。
「床が?」
 指差している若島津の側に、遠野が近づいた。
 なるほど、椅子が倒れているあたり、床にわずかだが水がこぼれている。
「グラスが落ちたのはこっちだし、第一あれは空になってたんだ…」
 落とした当人である加西が複雑な顔で証言する。
「まあまあ、そんなのいいじゃない、なんだって」
 そんな重い空気を見渡して、しかし遠野は気楽に笑顔を見せた。
「勢至が来ればなんとかなるさ」
「――な、なんとかって…?」
 恐る恐る聞き返す裄広。
「だってあいつん家は寺だろ? お祓いだってやってくれるさ」
「そんな問題かよっ!!」
 怪談か漫談か、だんだんわからなくなる。
「まあまあ。それより現実の問題が先さ」
 遠野は若島津に手を上げて見せた。
「今日、取材があっただろ? あれ、週刊誌だから記事になるのはまだ先のつ もりだったんだけどさ、ラジオのこと忘れてたんだよ」
「ラジオ?」
 音楽業界のネットワークになど縁のない若島津にはとっさに遠野の言ってい る意味がつかめなかったようだ。
「今日の雑誌がラジオの深夜番組のスポンサーになっててね、そこの速報コー ナーで今日の取材の内容を今夜のオンエアで流すって、さっきそれで俺、呼び 出されてたんだよ」
「……」
 調子に乗ってあることないこと匂わせてしゃべりまくったのは遠野本人だっ たはずだが。
「ニュースじゃなく噂、ってノリのコーナーではあるけど、君のほうでちょっ と問題あるんじゃないかなあ。引退とか言っちゃったし」
「噂ですむなら後で笑い飛ばせばそれまでですけどね」
 サッカー関係者がそういう番組を聴いている可能性は高くないとしても、話 はどうせ伝わることになるだろう。
 監督とサッカー協会と学校にさえ説明しておけば、問題はそう尾を引くこと はないだろう。――若島津はそう判断した。
「明日、朝にでも電話しておきますよ、マズイことになりそうな所へは」
「悪いな」
 あまりそう思っているような様子のない遠野を見送ってから、若島津はうっ かりもう一ヵ所忘れていたことに気づいた。
「――ああ、そうか。日向さん、怒ってるだろうな」
 こっちも電話くらいしておこう、と若島津は考えたが、その一方で何か取り 返しのつかない忘れ物をしているようなそんな気分になり始めていたのだっ た。








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