ザ・プロミスト・ランド










「剛くんなら、いたらしいよ」
 思いがけないほどの呆気なさで、噂というものは姿を現わす。
「TV局に知り合いがいるんだけど、そいつが地方ロケ先に出向いた時に剛く んがいたって言うんだ」
「本当ですか、用祭(ようさい)さん!」
 深夜のスタジオ地下フロアの喫煙コーナー。レコード会社のプロデューサー である用祭はポケットをごそごそ探っている。
「んーと、これだ。秋の特番でやるバラエティ仕立てのドキュメンタリー番組 ってことなんだが、その現場スタッフの中に混じって働いてたって」
「え〜? それ、ほんとに剛だったんですかぁ?」
 プロデューサー氏の出した名刺を見て、それでもなお裄広と加賀美は半信半 疑だった。
「出演者じゃなくてスタッフ、ってとこがなあ…」
「俺も驚いたけどね。そいつは話もしたらしいし、本人なのは間違いないと思 うがねえ」
 伝聞である以上、それ以上の断定はできないのだが。
「信州の山奥のダムがどうとか、そういう企画らしいよ。剛くんは地元の素人 のエキストラ相手に指示や演技指導なんかをやってたって」
「ますます信じられないな、そいつは」
 加賀美は頭をかいた。
「金に困ってるならともかく、あいつがそんな裏方を…」
「面白ければなんでもやるヤツじゃなかったっけ」
「面白いのか、そういうのが」
「俺に聞くなよ」
 裄広はお手上げという顔をした。
「さっきの『無責任!情報食い逃げコーナー』で言ってた話も怪しいのばかり だったし。剛の場合、らしいとからしくないでは判断できないよ」
 そのコーナーとは、遠野のまさに無責任発言を真に受けた例のラジオ番組の ことであった。キャスターはその話に続けて関連情報として剛の消息にかかわ る別の噂をいくつか紹介したのだ。
 東北のある港町の花火大会で実況DJをやっていたとか、北関東の都市の商 店街でアーケード棟上の餅投げをやっていたとか、実にローカルな噂ばかりだ ったが、そのくせ祭りっぽい賑やかな場ばかりなのが変に信憑性がある、そん な噂ばかり集まっていた。
「でも、そのへん考えると剛とあの弟はほんっとに似てないって言うか、正反 対だよな」
「そだな」
 若島津が聞いていたらさぞ喜んだことだろう。
「聞いてたよりずっとキレイだしな」
「おー、サッカー選手だって言うからさぞゴツイかと思ってたけどな」
 いや、やはり聞かせないほうがいいようだ。
「キレイな上にあの暗さ…。どうも怪談じみてるってゆーか」
「女の声にラップ現象か。――まさか、あの弟が霊を呼び寄せてたり?」
「おまえの曲のほうだろ、それは。『たちわかれ〜』だもんな」
「俺のせいじゃないぞ、遠野が勝手に言い出したんだ!」
 ついにもめ始める2人であった。
「呼び寄せるなら金運と女がいい〜!」
「こらこら」
 プロデューサーの用祭氏は苦笑しながら煙草をもみ消し、立ち上がった。
「剛くんの弟まで来て手伝ってもらってるんだろ。君たちもそろそろ戻んなさ い」
「ふあーい」
 別にサボろうとしてここに来たわけではなく、気にかかることがあるだけな のだが。2人は顔を見合わせてのろのろと席を立った。
「そろそろ丑三つ時、ってやつじゃないのか?」
「やなこと言うなよ。あれは3時頃だ。まだ少しある」
「おまえこそ具体的に言うなよ。余計気になるじゃないかー」
 スタジオは夜も眠らない。スタッフもミュージシャンたちも実際は眠るに眠 れない夜となったのだった。














「君、少し眠っといたほうがいいんじゃないのか? ほら、寝不足で、ここに 来てすぐに気分悪くなってただろ」
 通りすがりにリハーサルスタジオを覗いて、加西氏が声を掛けてきた。
 若島津はスタジオの中で、楽器をとっかえひっかえしながらアレンジに四苦 八苦している裄広に付き合っているところだった。
「うん、俺のほうは一人で大丈夫さ。いつもこうだし。少しでも眠ってきた ら?」
「ええ、まあ、でも乗りかかった船ですから」
 若島津は裄広からソプラノサックスを引き取りながらそう答える。もとから 元気ハツラツに見えるタイプではないので疲れているかどうか見た目だけでわ かるかは怪しいところだが。
「じゃあ、せめて休んだら? コーヒーでも飲んでさ。なあ、ユキヒロくん」 「おー、賛成賛成。俺、首が痛くなっちゃった」
 楽器をいくつも広げた床にぺたんと座っていた裄広は、伸びをしながら立ち 上がった。
「じゃあ俺入れてくるわ。君、砂糖いくつ?」
「あ、俺…」
 と言いかける若島津を押しとどめて、スタジオを出て行く。ミニキッチンが このすぐ横にあるのを知っていた若島津は自分が行くつもりだったのだが、先 を越されてはしかたがない。
「じゃ、無理しないでほどほどにね」
 手を上げて行ってしまった加西に頭を下げて、若島津はそれでもほーっと息 を吐いた。
 珍しいことばかりで気が張っているせいか疲れは感じなかったものの、なる ほど効率は落ちている気がする。まあ、徹夜というのは本来そういうものなの だが。
 背を伸ばして肩をぐるぐると回し、そうしてふと止めた。
 自分の左肩に目を落とす。ジャージの上からその感触を確かめるように、当 てた手を軽く動かしてみた。
 この数年、何度もトラブルを起こし続けている肩。かかりつけの医師にも定 期的に通い、常に注意を怠らないようにしている古傷がここにある。
 無理をしなければ…と、医師はいつも苦笑してみせるのだ。若島津の性格を 知っているだけに。
『君は故障をだます前に自分をだましてしまうからねえ』
 そうは言っても、長年の付き合いだ。仲のいい時もあれば喧嘩することもあ る。自分では無理をしている意識はないのだが。
 若島津は手を離して立ち上がった。窓のない、防音壁で囲まれた部屋の中心 に立つ。
 ここのように目に見えるものの間で、それらを道具として使って、しかも目 には見えない一つの結果を出す…という共通点を若島津は考えた。
 フィールドは目に見える。選手も、ボールも目に見える。しかし自分が任さ れているのはあくまで目に見えない「防御」だ。ボールという物体を防ぐので はなく、「攻撃」という抽象物が敵なのだ。
 なのに、それをする自分は具体的な物体で、生きて形があってそして故障さ えもする。その不思議を、若島津は改めて意識せずにいられない。
――そう、あなたのその肩。
「え!」
 若島津は弾かれたように振り返った。
 白い服の少女がそこに立っている。
 夏の短いワンピース。はだしに白いサンダル。
――あの事故、わたしも見てた。かわいそう。
「なんで、そんなことまで…」
――あなたを待ってたって言ったでしょう?
 少女と自分の間が、そしてその周囲が白くぼやけていく。スタジオはもうま ったく見えない。
――あなたはいつもあの事故に戻っていく。何度も、何度も。
「どういうことなんだ。何が言いたい」
 少女は口を結んだ。笑顔のような、しかし泣き顔のようなあいまいな表情で こちらを見ている。
 若島津は頭を一振りした。何かを振り払うかのように。
 あの交通事故。小学生の時の、トラックにはねられたあの事故だ。
 あれ以来、若島津は自分が変わってしまったことを知っている。体が受けた 傷だけではない。自分の内側、そのもっと奥のところに大きな変化が起きたの だ。
 それがたとえば、特殊な能力というものと結び付いたかもしれない。予知夢 というものだと自分でわかるまでしばらくかかったけれども。
 ただの気まぐれだったサッカーを、ついには空手を捨てても選ぶことになっ たのも、あの事故が転機になったはずだ。
――でも、なぜ?
 少女はそんな若島津の思いを見透かすように言う。
――なぜあなたはそこから進めないの? 何度も戻って来るの?
「戻る? どういう意味なんだ」
 声が、かすれる。ふわりと風が髪をあおった。
「…どういう意味って」
 すぐそばで、裄広が目を丸くしていた。
「それどういう意味?」
「あ、裄広さん…」
 若島津の全身からすーっと緊張感が抜けていった。
 マグカップを両手に一つずつ持った裄広が近づいてくる。スタジオは、さっ きのままの現実のスタジオだった。
「すいません、いただきます」
「ああ、これ飲んで目を覚まそうぜ、ぱっちりな」
 立ったまま2人は熱いコーヒーを口に運んだ。
「…甘い」
 ミルクも砂糖もたっぷり入っているらしかった。顔を上げた若島津に、裄広 はにやっと笑顔を返してくる。
「俺、甘党なんだ」
「はあ…」
 諦めてまた一口すする。
 これで目が覚めるならいいんだが…と、若島津はもう一度スタジオを見回し たのだった。








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