ザ・プロミスト・ランド





◆第4章◆









「ああ、みのりか。父さんはいるか?」
「珍しいね、どうしたの、健兄」
 翌朝、埼玉の実家に電話を入れると、出たのは妹のみのりだった。明和東中 の3年生。若島津とは4つ違いである。
「父さんは留守よ。世界選手権でずっと。知らないの?」
 知らないのだ、これが。とにかく夏休みでさえサッカーにかかりっきりで実 家に帰る暇さえない次男坊だ。毎年恒例のスケジュールも意識の外にあったら しい。
「今年はオーストラリアのメルボルンよ。私も連れてくって言われたけど、パ スしちゃった。せっかくの夏休みなのに、あっちは冬なんだもの」
 若堂流空手道場の後継者問題は、この家にとって鬼門になりかけている。長 男がいち早く逃げ、次男もあれこれあった挙げ句に同じく離脱、その後をつな いでいた長女も今年になって強引に嫁に行ってしまった。父親はそのたび落胆 を重ねてきたはずだ。
 そして残った末娘はまだわずか14才。この先の見通しはまさに不透明なま ま、ということになる。
『ああ、いいのよ。私は空手、好きだもん』
 しづ姉の結婚に際して屈託なくそう宣言したと聞いてはいるが、兄としてど うしても後ろめたさは残る若島津だった。
「何か大事な用? なら帰って来て直接話せば?」
 そんな若島津の思いをよそに、妹は相変わらずの歯切れのよさを見せてい た。見目は悪くないのに無表情な上に無遠慮、性格はとことんストレートとき てはさぞ周囲は大変だろう。
「ゆうべのラジオ? なにそれ。私は朝練があるもの、遅くまで起きてるわけ ないでしょう」
「そうか」
 一応、ほっとする。とりあえずは家族のほうは余計な混乱は避けられたとい うことだ。
「え、剛兄のこと? クマなら先月届いたわよ」
「ク、クマ…?」
 この春の出奔に際してしづ姉とみのりの間にどういう密約があったかは、若 島津はもちろん知らない。
「おみやげよ、ドイツのね。先に船便で送ってきたの」
 そう、ドイツはシュタイフ社の特大テディベアのぬいぐるみを、みのりはリ クエストしていたのだった。
「じゃあ、やっぱりそっちにも顔出してないのか。困ったな」
 遠野から、まだ実家には帰っていないらしいとは聞いていたが、やはりその 後の変化はないようだった。
「じゃ、みのり、俺も当分帰れないけど母さんによろしくな」
「あ、健兄、ちょっと待って! 今ね、…もしもし!」
 しかし、若島津はあわただしく電話を切ってしまっていた。先を急ぐ、とい う感じだった。
「切れちゃった…」
 みのりは受話器を持ったまま、振り返る。
「どうする、日向さん」
 若島津家の玄関で、駆け込んで来たばかりの日向は息を切らせたまま、ただ みのりを見上げていた。













 どたどたとあわただしい足音がする。
 ロビーの電話を切った若島津は、その騒ぎのほうを振り向いた。走って来る 一人はプロデューサーの加西だ。
「どうしたんですか」
「ああ、君も来てくれ。消えちまったんだ!」
「何がです」
 加西について、廊下を曲がる。そこにも人だかりができていた。
「マスターテープだよ。今朝がたミックスダウンし終わったばかりの『いなば やま』が消えたんだ」
「ああ、加西さん、どうでしたか?」
 遠野がスタジオの一つから顔を出す。
「バックアップに送られたほうに混じってないか見てきたが、やっぱりない よ。こっちは?」
「今朝ミキシング室にいた全員で確認しました。でも見当たりませんよ。部屋 のどこにも」
「ううう、どうしよう…」
 裄広が突っ立ち頭をかき混ぜながら廊下を行ったり来たりしている。
 マスターテープとは何ですか、と尋ねる空気ではなかったので若島津は一人 立っていたのだが、そこへ遠野が近づいて来た。
「昨日からモニター室にいたよね。誰か、あっちには変な奴とか見なかったか な?」
「いえ、別に。俺から見たらどの人も知らない人だし」
「そうか、そうだよな」
 若島津の肩に手を掛けたまま、遠野はうなだれてみせた。
「――あれ?」
 はっと顔を上げる。若島津の耳に、微かな音が届いた気がしたのだ。
「どうした?」
「あっちで、何か聞こえませんか?」
 その場の全員が息を殺して耳を澄ませる。防音設備の整ったスタジオの廊下 で、ごく微かに聞こえてくる音。
「…こっちか?」
 ゆっくりと、音を立てないように進みながら音をたどる。スタジオを一つ過 ぎ、また一つ過ぎて…。
「おい!」
 先頭の遠野が指を差した。
 廊下の一番奥、非常階段のドアに隣り合った最後のスタジオ。
 音はそこから流れてきていた。はっきりと、メロディが聞こえる。
「『いなばやま』だ…」
 裄広がささやいた。








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