ザ・プロミスト・ランド










「ごめんね、日向さん。切れちゃった」
 日向は、駆け込んだ勢いで上がりかまちに体を半分乗り上げたままだった が、無言でみのりを見上げ、一度がくっと頭を落とした。そのまま深呼吸で息 を整える。
「ども」
 日向は体を起こしてきちんと立ってから、軽く頭を下げた。
「今の、若島津――どこからだった?」
「え?」
 なにしろここは若島津家。このみのりももちろん若島津に違いはないが、別 に呼び名で混乱したわけではない。
「健兄は学校じゃないんですか? 帰れないって言ったからきっとそうだと」 「帰れない…!?」
 日向が絶句する。そこへおっとりとした声が近づいて来た。
「まあまあ、みのりさん、駄目ですよ。玄関先で話し込んでいては。早く上が っていただきなさいな」
「あ、どうも、ごぶさたしてます」
 また頭を下げる。ごぶさたもごぶさた、日向が若島津家にやって来たのはか れこれもう4年も前、中学3年の夏以来なのだ。しかしここに現われた若島津 の母親は当時とまったく変わらない。
「さあさあ、日向さん、どうぞお上がりください」
「えっ、でも――」
 日向は若島津の妹のみのり――彼の妹の直子とは同じ明和東中の同じ学年だ ――を困った顔を見やった。今、タッチの差で若島津をつかまえそこねたばか りである。すぐにも次の心当たりを探しに行きたいのだ。
 しかし日向は意外にも年長者と女性には弱かった。結局、勧められるままに 座敷に上がってしまう。
「合宿を抜け出した? 健兄が?」
 みのりはあっけにとられたようだった。表情が今ひとつ読みにくかったもの の。
「まあ抜け出すと言うか、最初から来なかったと言うか…」
 日向は座布団の上で落ち着きなく視線を泳がした。この妙に時代がかった大 きな家が昔からどうにも苦手なのだ。
「はい、どうぞ。何もお構いできませんけれど」
 若島津の母が盆に麦茶と水蜜桃を運んで来る。にっこりと微笑みかけられて 日向はまた困り果ててしまった。ますます切り出しにくい。
「さあ、足をお楽に」
「あ、どうも」
 ほかほかと暖かい麦茶を口に運んで、日向はなんとか一息ついた。
「健兄が、合宿からいなくなったんですって」
「まあまあ」
 若島津の母は目を細めた。驚いているのだろうか。
「もしかしてこちらかと思って来てみたんです。行き先とか、わからないです か?」
「ついさっき電話があったのよ。ほんとにあと少しで日向さん間に合ったんだ けど、切れちゃって」
「困った健さんねえ」
 口元を押さえてため息をついているが、口調に緊張感がないので、どうも本 気なのかどうか。一家揃って感情の読みにくいタイプが揃ったものである。
「あの子は人一倍頑固だから、説得も大変なんですよねえ」
「お母さん?」
 運んで来た盆の横に置かれていたものを、若島津の母は座卓の上に取り上げ た。
 日向は目の前に差し出されたそれを驚いて見つめる。
「あの、これ…?」
 それは紛れもなく色紙であった。
「サインしてくださるかしら? お父さん、留守の間に日向さんがいらしたな んて聞いたら後で大変だから」
「ちょっと、お母さん!」
 みのりが止めようとするが、色紙はしっかり日向の手に渡ってしまった。
「大変、って…」
「お父さん、あれで日向さんのこと大ファンなのよね。TVで試合の中継なん てあったら大騒ぎ。録画してみんな残してあるわ」
「……」
 みのりの説明に日向は絶句した。4年前に一度来たことがあったのは、何を 隠そう、若島津の父親と対決するためだったのだ。
 中学3年の夏の全国大会で優勝できなければサッカーをやめる、などと宣言 してしまっていた若島津を取り返すため、日向は敵地に乗り込んだ。
 しかし、気色ばんで食ってかかった日向の言葉に若島津の父は黙って耳を傾 け、そうして一言、
『本人の好きにすればいい』
と許したのだった。確かにあのあっけなさは日向にも謎として残っている。
「あの時は助かりましたわ、日向さん」
「はい?」
「健さんもお父さんも、似たもの同士で引っ込みがつかなくてねえ。日向さん のおかげで、どちらも折れるきっかけができましたもの」
 結果が同時優勝だったことが気に染まなかったのは、今思えば父親だったの か若島津のほうだったのか。
 頑固、と言えばそうかもしれないと、日向は今さらながら考えた。日常の若 島津は何においても柳に風、自分からはっきりとした意思表示を見せることが 少ないために忘れられがちだが、自分自身のことについては絶対に譲らないも のがある。
「――お母さん、どうして2枚あるの?」
「ほほほほ」
 着物の袖を引いて母親は口元を隠した。みのりの冷たい視線にも、もちろん 動じてなどいない。
「あのね、あれ以前からだったのよ、お父さんは」
「そ、そう…」
 門の外まで送ってきたみのりにそう駄目を押されて、日向はただうなづくし かなかった。
 道場の看板のかかった門を見上げると、4年前のあの夜に、立ちはだかるこ の門をまさに意を決して睨みつけたことがはっきりと思い出される。それも、 実際はまんまと空振りに終わっていたことになるのだ。
 一家揃っていつも応援ありがとう。
 そう考えることにしましょう。
「あれ? 見送りはもういいけど」
 駅に向かって歩き始めた日向は、隣を歩くみのりに目をやった。
「ねえ、日向さん。健兄を探すなら私を連れて行ったほうがいいわ」
「えっ?」
「私、心当たりがあるの。そこへ行きましょう」
 手に持っていた白い帽子をきゅっとかぶって、みのりは日向に笑いかける。 めったに見せない貴重な笑顔だが、日向はそれどころではない。
「ちょっと、あのな!」
 しかし、みのりはそれには構わず、ずんずんと先へ歩き始めたのだった。 








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