◆第5章◆
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廊下の奥の12番スタジオ。
目で合図して、遠野がドアノブに手をかける。ロックはされていなかった。
「え、ええっ…!?」
無人のスタジオの、録音ブースの中にライトがついている。誰もいないマイ
クの前、椅子が一つあって、その椅子に寄り添うように大きな楽器が置かれて
いた。
「ウッドベース?」
人の気配はない。スタジオのミキサー室側は真っ暗で、しかしコンソールの
レベルメーターが赤く伸び縮みしている動きだけが浮かび上がって、まるで生
き物の鼓動のようにも見えた。
「これ、マスターテープだ!」
回り続けるデッキのリールの前で裄広が叫ぶ。さっきから流れ続けている
『いなばやま』の楽器パート、つまりカラオケ状態の演奏がそこでふっと途切
れた。テープをすべて巻き取って、リールがからからと空回りする。
「おい、再生し直すんだ! チェックしないと…」
加西が人垣の中から声を上げた。たとえわずかな損傷でもついてしまえば台
無しになるのだ。
エンジニア数人と加西が取り囲むようにしてテープを巻き戻し始める。裄広
と加賀美はブース内に入ってきょろきょろと確認をしていた。
「そのウッドベース、どこからのだ?」
ガラス越しに遠野が手振りをする。膝をついて丹念に楽器を調べていた加賀
美がこちらを見てうなづき、こちらに出て来た。
「リハーサル室のだったよ、あれ。楽器庫にある1台だ。ネームタグがついて
た。――でもどうやってここに来たんだろう」
「いつも誰かしら動き回ってるんだ。そこらへん、どこも。こんなデカイもの
を誰にも気づかれずに運んで来られるなんて無理だってば」
2人は首を傾げるばかりだった。
「神隠し、とか」
腕組みをした遠野が、天井を睨みながらぽつんと言う。
「楽器の神隠し…。剛も、もしかして同じだったりしてな」
「やめんか!」
裄広が伸び上がってその頭をぽかりとなぐった。
「そういう冗談は時と場合を考えろ!」
「冗談じゃないんだけど…」
遠野は向きを変えて、そうしてそこに立っている若島津に目を止めた。
開かれたままのスタジオの厚いドアに手をかけて、若島津は廊下側から室内
をしげしげと覗き込んでいた。視線が、機材に人に壁に床に…と順々に動いて
いく。
何をしているんだ…と遠野はいぶかしんだ。それほど、若島津の様子には何
か尋常ではない空気が漂っていたのだ。
「――健くん?」
「遠野さん」
こちらから声をかけようとしたのと同時に若島津は手を挙げた。遠野は一人
でドアまで歩いて行く。
「遠野さんはここのスタジオの怪談を信じてますか?」
「起こった事実だけは信じるよ。原因が何であれ、ね」
なるほど、というように若島津はうなづいた。
「俺は事実はなんだっていい。ただ自分が巻き込まれるのは願い下げです。振
り回されたり、まして疑われたりするのはね」
「おいおい、別に疑ったりなんて…」
「――要するに」
遠野の言葉を手を振ってさえぎる。
「俺はエサになるためにここにいるんだから、こっちのほうもエサになればい
いんですよ」
「え?」
「どうやら俺の知り合いらしいんで」
その口調があまりにあっさりしていたせいで、遠野は一瞬虚を突かれたよう
だった。
「健くん…?」
「い、いぃいいいい〜!」
背後に立っていた裄広と加賀美が声にならない悲鳴を上げた。同時に遠野の
目が若島津を凝視したまま真ん丸に見開かれる。
「やっぱり」
それはちょっとあんまりな発言かもしれなかった。
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