ザ・プロミスト・ランド










「どこなんだ」
 若島津は廊下を進みながら周囲を注意深く見回していた。耳を澄ませて気配 を探る。
「絶対にこっちからつかまえてやる…」
 曲の途中までは確かに気配があった。自分を呼ぶ声、少女の姿をしたあの気 配である。
 だが、「いなばやま」の途中でそれがいきなり消えてしまったのだ。そう、 逃げるように。
「あ、加西さん」
「ああ?」
 5番スタジオの前で加西ディレクターとばったり出会う。
「今、あの変な声が入ったスタジオを見てきたんですが」
「どうした?」
 加西は怪訝な顔をした。ボツテイクの一つや二つ、レコーディングの中では いちいち構ってはいられない。まして、スタッフを怯えさせるようなものは特 に、である。
「今までああいう声が入ったりしたのは、あの部屋だけですか、他のスタジオ ではどうですか」
「いや、俺はあまり詳しくはないけど、色々だったかな。他のスタッフのほう がよく知ってるよ」
 答えておいて、加西は奥のエンジニアに手を振った。録音は休みなく続いて いるのだ。ブースの中では遠野と加賀美がギターを持ってスタンバイしている のが見える。
「じゃ、モニター室で聞こえたほうの音は?」
「あれか」
 加西は少し顔をしかめた。あの時、加西もその場に居合わせた一人だったの だ。
「あんなのは初めてだな。たぶん」
 怪談といっても、なるほど色々あるわけだ。
 演奏が始まり、壁のスピーカーから音が流れ出す。これは「いなばやま」と は違ってダンス・ミュージック系の音楽だった。サンプリングが強調されてい るので余計にカラーが変わって聞こえる。多彩な、あるいは脈絡のない音楽志 向だけは、剛'Sクルー時代と変わらないらしい。
「下に行ってみます」
 加西と別れて、若島津は階段に向かった。忙しそうに人の動く2階廊下とは まったく違って、ここは妙にシンと静かだった。若島津は立ち止まる。
「あ――」
 はっと振り向くと、視界の端を少女の影が横切った。
 階段の吹き抜けになったその壁に、はめ込みのガラスブロックが縦に長く光 を反射している。その光に、若島津は思わず目をそばめた。
「おい、どういうことだ! 何で俺を追い回す」
 が、気配は一瞬で消え、若島津はぐるっと大きく振り返った。廊下の一番端 に姿見があり、今度はそこに少女の姿が白く浮かび上がっている。
――私は、追ったりしない。私は待ってるだけ。
「なら、出て来い! 逃げるな!」
 鏡に駆け寄った時には少女はもう消えて若島津自身が睨むように映っている だけだった。
 若島津は拳を握り締める。気配はもう完全になくなっていた。ガラスの反射 に錯覚しただけなのか…。若島津は頭を振ると階段を下り始めた。
 中2階まで来たところで、リハーサルスタジオのほうから用祭プロデューサ ーが現われた。階下に向かうところだったらしい。
「お、健くん、ちょうどいい」
 用祭氏は手に持っていたメモをひらひら振った。
「君、何食べたい?」
「は?」
 にこにこしながら用祭氏はうなづいた。
「完徹でその上朝メシ抜きじゃ若いモンはもたないだろ。今出前を頼むところ なんだ。何でも好きなものを言いなさい。どうせ会社持ちだから」
 なるほど、レコーディングもスケジュールが押してくると食事に出る暇もな いのだろう。メンバーやスタッフたちのリクエストがメモにはずらりと並んで いる。しかし御大を使い走りにするとは、現場の忙しさも相当なものらしい。 「いや、俺は別になんでもいいですけど」
「遠慮はいいから選んだ選んだ。これなんかどうだい」
 事務室にはなんと出前用のメニューが何種類か揃っていた。その中のひとつ を渡して用祭氏は催促する。強引に引っ張って来られた若島津は当惑したよう にそれを眺めた。こんなことしている場合だっただろうか。
「あ、ここだった、用祭さん!」
 その時、開いたままの事務室のドアから、スタッフがあわてた様子で顔を覗 かせた。
「勢至さん来ましたよ。ちょっとお願いします」
「おっ、そうか!」
 廊下に出ると、向こうから小走りに近づいて来るのは確かに大場勢至だっ た。が、顔が妙にこわばっている。
「け、健くん! あー、いたいた、よかった」
「はあ?」
 その用祭にではなく、若島津に勢至は先に駆け寄って来た。
「マスコミに見つかってさ、俺のマンションで。君の妹と日向くんが今、連中 につかまってんだ」
「……」
 若島津は無言で勢至を見た。驚いているのか、感動しているのか、その顔か らは読めない。用祭氏のほうが口をはさんだ。
「マスコミって、君がなんで追っかけられるんだ? 何か別口のスキャンダル があるのか?」
「違いますよ、剛のせいなんです。あいつが帰国したってのを取材に来たとこ ろに日向くんがいたもんだから、連中すっかり妙な方向に勘繰っちまって」
「妙な方向…」
 ぼそっとつぶやいた若島津に、2人の話がぴたっと中断する。その暗いリア クションは、勢至をあわてさせたようだ。
「いや、大丈夫だよ。誰かが話をリークしただけみたいだし、すぐ誤解だって わかるって。第一、普通に考えれば君を巡って剛と日向くんが張り合うなんて ありえないって気がつくから」
「……ほおお」
 どうやら墓穴を掘ったのかもしれない、と勢至が気づいた時には、もはや手 遅れの状態だった。
「そういう噂ですか、なるほどね。誰が流したか大体見当はつきますがね」
「あ、まあ健くん、冷静に冷静に。それよりみのりくんと日向くんが心配なん だ」
「心配?」
 若島津の目がきらりと光った。
「どういうわけで一緒なのかはともかく、心配するのはその記者たちが無事か どうかですよ。あの2人相手ならね」
「そ、それは…」
 そうかもしれない、と納得しそうになった勢至を責められないだろう。あの 2人のインパクトは、それほどに強烈だったということで。








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