●
「どこなんだ」
若島津は廊下を進みながら周囲を注意深く見回していた。耳を澄ませて気配
を探る。
「絶対にこっちからつかまえてやる…」
曲の途中までは確かに気配があった。自分を呼ぶ声、少女の姿をしたあの気
配である。
だが、「いなばやま」の途中でそれがいきなり消えてしまったのだ。そう、
逃げるように。
「あ、加西さん」
「ああ?」
5番スタジオの前で加西ディレクターとばったり出会う。
「今、あの変な声が入ったスタジオを見てきたんですが」
「どうした?」
加西は怪訝な顔をした。ボツテイクの一つや二つ、レコーディングの中では
いちいち構ってはいられない。まして、スタッフを怯えさせるようなものは特
に、である。
「今までああいう声が入ったりしたのは、あの部屋だけですか、他のスタジオ
ではどうですか」
「いや、俺はあまり詳しくはないけど、色々だったかな。他のスタッフのほう
がよく知ってるよ」
答えておいて、加西は奥のエンジニアに手を振った。録音は休みなく続いて
いるのだ。ブースの中では遠野と加賀美がギターを持ってスタンバイしている
のが見える。
「じゃ、モニター室で聞こえたほうの音は?」
「あれか」
加西は少し顔をしかめた。あの時、加西もその場に居合わせた一人だったの
だ。
「あんなのは初めてだな。たぶん」
怪談といっても、なるほど色々あるわけだ。
演奏が始まり、壁のスピーカーから音が流れ出す。これは「いなばやま」と
は違ってダンス・ミュージック系の音楽だった。サンプリングが強調されてい
るので余計にカラーが変わって聞こえる。多彩な、あるいは脈絡のない音楽志
向だけは、剛'Sクルー時代と変わらないらしい。
「下に行ってみます」
加西と別れて、若島津は階段に向かった。忙しそうに人の動く2階廊下とは
まったく違って、ここは妙にシンと静かだった。若島津は立ち止まる。
「あ――」
はっと振り向くと、視界の端を少女の影が横切った。
階段の吹き抜けになったその壁に、はめ込みのガラスブロックが縦に長く光
を反射している。その光に、若島津は思わず目をそばめた。
「おい、どういうことだ! 何で俺を追い回す」
が、気配は一瞬で消え、若島津はぐるっと大きく振り返った。廊下の一番端
に姿見があり、今度はそこに少女の姿が白く浮かび上がっている。
――私は、追ったりしない。私は待ってるだけ。
「なら、出て来い! 逃げるな!」
鏡に駆け寄った時には少女はもう消えて若島津自身が睨むように映っている
だけだった。
若島津は拳を握り締める。気配はもう完全になくなっていた。ガラスの反射
に錯覚しただけなのか…。若島津は頭を振ると階段を下り始めた。
中2階まで来たところで、リハーサルスタジオのほうから用祭プロデューサ
ーが現われた。階下に向かうところだったらしい。
|