ザ・プロミスト・ランド










 初めはゆっくりと、そして次第に早足になり、階段まで来たところでついに 駆け出した。
「怪奇現象が聞いて呆れるぜ!」
 若島津は中二階の奥にあるリハーサルスタジオに駆け込んだ。
「あれっ、君?」
 2人がかりでアンプの調整をしていたスタッフが驚いて振り返った。一人は さっき「いなばやま」を再生してくれたエンジニアである。
「ここに、誰か怪しいヤツが来ませんでしたか?」
「え、出前のことかい?」
 エンジニアは若島津の言葉に見当外れな答えを返す。
「上にももう届いたろ? 俺たちさっきここに来たらちょうど出前が届いたと こでさ、おじさん、残りを上に持ってくって言ってたのに」
「出前のおじさん?」
 眉をひそめる若島津に、エンジニアは目でテーブルの上を指した。彼ら2人 分の弁当がそこに積んである。
「一足遅かったか…」
「え?」
 スタッフたちは舌打ちする若島津を不思議そうに見た。何が起きているのか わからないのだ。
「隣、モニター室は使ってますか、今?」
「いや、今日はまだ全然…」
 その答えを聞くが早いか、若島津は駆け出してモニター室のドアを開く。昨 夜見た通り、機材とそして部屋の真ん中に大テーブルが置かれている。その上 に、探していたものが乗っていた。ラジカセだ。
「カセットテープは入れたままか」
 若島津はうなづいてからプレイスイッチを押す。
 聞こえてきたのはざわざわした雑踏の音だった。巻き戻してもう一度頭から 聞き直す。
『俺だよ、剛だ――』
 予想していた通りの声が出てきた。人声や駅のアナウンスの音がかなり大き くかぶさってて、なるほどこれなら聞き取りにくいのも当然だ。
「やっぱりここからかけたんだな、あの電話」
「なあ、どうかしたのか?」
 心配になったのか、さっきのスタッフがそーっと覗きに来た。
「他に、何か変わったことは? たとえば、台車が出しっぱなしになっていた とか」
「え、なんで知ってるんだ、君」
 確かに、普段はあまり使用しないはずの台車が、リハーサルスタジオに残さ れていた。今朝見つかったばかりなのだが。
「――その出前のおやじ、きっとニセモノですよ」
「えーっ!?」
 そう、剛はここに来ていたのだ。おそらく、昨日からずっと。
「ミュージシャンとスタッフ以外の外部の人間がスタジオ内にいたとして、怪 しまれないのは誰だと思います?」
「えーと、じゃ、じゃあ…」
「そういうことですよ。そいつが兄貴だったんだ」
 若島津の言葉に、エンジニア氏はおろおろし始めた。
「えー、でも何のために? みんな剛さんが来るのを待ってるのに、隠れるこ とないじゃないか」
「さあ、何かやましいところでもあるとか」
 若島津はテープをラジカセから取り出した。
「どこか外から電話しているように思わせておいて、自分はここのスタジオの どこか使っていない部屋に隠れてたんでしょう。『いなばやま』のマスターテ ープが無人のスタジオに移動していたのもきっと兄貴のしわざだ。さっきの電 話でユキヒロさんに『いい曲だ』なんて言って、聴いていないはずなのに変だ と思ったんだ」
「あの台車は…」
「ウッドベースを運んだ時のでしょうね。あの時、廊下を掃除してたおばさん いたじゃないですか」
「お、おばさん…!?」
 どんな姿だったか、エンジニア氏にはどうしても思い出せそうになかった が、誰もまったく怪しまなかったことだけは確かだ。なるほど、あの騒ぎの時 に廊下にいた外部の人と言えばそれしかない。
「いても気にならないって意味では盲点ですからね。あのゴミの用具入れに見 せてたワゴンあたり、中身が別モノだったと考えれば…」
「そんなあ。剛さんが変装までして――」
 行動パターンが読めない人物なのはエンジニア氏もよく知っていたのである が、それにも常識の範囲というものがあるはずだ。いや、あってほしい。
「『出前のおじさん』がまた別の悪さをしないうちに探してみます。あ、この テープ、上にもって行きますから」
「う、うん」
 ほんの少し前には怪奇テイクを聴きながら怪しい行動を見せていたこの無口 な男が、一転して現実的な解説を始めたことがむしろ驚きだったのだろう。エ ンジニア氏は若島津が立ち去った後もしばらく呆然とドアの前に立っていた。 「おい、どうしたんだ?」
 もう一人のスタッフが心配そうに隣のスタジオから様子を見に来た。
「顔色が悪いぞ。ちょっと休憩するか? 弁当でも食って」
「うん…」
 我に返って、エンジニア氏は頭を掻いた。
「なんか、今度の仕事、いつもの倍は疲れるな」
 いわくつきの弁当だが、それでも何かの慰めにはなりそうだ、と彼は思った のだった。








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