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「こんなとこにいやがったな、若島津!」
「えっ?」
声の主を振り返って、若島津はまさに呆気にとられた。
「日向さん、あんたこそ、どうして…」
「ふん、俺から逃げ隠れしようなんて無駄なんだよ!」
文字通り仁王立ちになって、日向はこちらを睨みつけていた。その表情があ
まりにいつも通りで、若島津はかえって笑い出しそうになったくらいだった。
「なに妙な顔してやがる。まったくおまえは勝手にふらふらふらふらよぉ」
「はい、すいません」
若島津は素直に頭を下げた。
「でも、ここ何なんだ、いったい。わけわかんねえ所だな。もしかして、夢ん
中か?」
若島津は目を見開いた。一瞬ぽかんとして、それから苦笑する。
そう、日向はいつだって直感の人間なのだ。そしてその直感は日向に関する
限り必ず正しい。
「ええ、そうです。夢の中ですよ」
「そうか。よくわかんねえがやっぱりそうか」
なんだか妙に感心しながら日向は自分の周りをつくづく見回した。ぼんやり
とした光に包まれているだけで何もありはしないのだが。
「ふん、あんまりいい夢じゃねえな。早く覚めちまったほうがいいんじゃねえ
のか、おまえ」
「そうですね。でもここにいると肝心の目の覚まし方がよくわからないんです
よ」
「ま、夢ならそんなもんかもな」
若島津が消えたことを知って以来あれほどイライラ荒れていたのに、本人を
目の前にできたとたんに余裕を見せるあたり、現金と言うか単純と言うか。
「あんたこそよく他人の夢の中なんて来られましたね」
「なんだよ」
日向はむっとしたようだった。
「俺はな、おまえがうじうじまた悩んでしまってねえか心配で来てやったんだ
ぞ。おまえこそのんきに夢なんか見ている場合か」
「うじうじはひどいですね」
若島津はまた苦笑した。が、日向のほうは大真面目である。
「またどっか調子悪いとか、そういうんじゃないだろうな」
「え、ええ。大丈夫です」
「ならなんでサッカーやめるだのなんのって話になるんだ。おまえときたらし
ょっちゅうそれなんだからな」
「何です、しょっちゅうって。俺、そんなにやめたいなんて言ってないですけ
ど」
「いや、この前のU−17の世界選手権の時も、中学の全国大会の時もそうだ
ったし、そもそもあまえが明和FCに入った時からそうだったじゃねえか!」
「ちょっとちょっと、日向さん…」
妙なところで細かいというか、案外記憶力があるというか、それとも執念深
いのか。
会話がどんどん子供の言い争いレベルになっていくのが若島津にはなんとも
おかしい状況だった。ずいぶん長く、こんな正直な会話をする機会がなかった
気がする。
「明和って、それ古すぎですよ。俺、覚えてませんてば」
「俺は忘れてねえぞ。いつも通りすがりに練習に割り込んでは俺のシュートを
全部弾いちまってよ。そのくせサッカーはよく知らないなんて言ったんだ、お
まえは」
「そうでしたっけ」
「今でもムカつくぜ、おまえのあの態度は。なんとか吉良さんが説得してクラ
ブに入れたのに、やっぱりやめるなんて言って、それが夏の大会直前にだ
ぞ!」
日向の回想はますます熱を帯びてきたようだ。
「ああ、そう言えばそうでしたね。それはなんとなく覚えてます」
「まあとにかくだ、そのすぐ後おまえは事故で入院しちまったから、やめるっ
て話は結局うやむやになったがな」
「そうですね」
若島津は一応うなづいたが、実際はそんな簡単なものではなかったことを思
い出す。
日向に対するライバル心。それはいつも複雑に動き、変化し、彼を振り回し
た。サッカーに打ち込む、それだけに自分の百パーセントを賭けられる、そん
な日向が羨ましいというより妬ましくさえ感じられて、ついにはサッカーから
遠ざかろうとまで思ってしまった。ちょうどその時だったのだ、あの交通事故
は。それがすべてのきっかけだったと言えば否定はできない。
「ねえ、日向さん」
若島津はゆっくりと切り出した。
「あの頃、俺はあんたのこと大嫌いだった。だからサッカーも続けられたん
だ」
事故までの自分。その後の自分。何かがそこで大きく変化した。一度やめよ
うと思ったサッカーに、今度は本気で飛び込んだのだ。
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