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「翼からある程度は話を聞いていたが、これほどとはな。ま、頑張れよ」
「無責任な励まし方しないでよ、もう」 閉まるドアに向かってさらに文句を言いたそうな顔をした岬だったが、その時背後から 人の来る気配に気がついて振り返る。見れば隣の部屋の前で森崎が足を止めたところだっ た。☆ 「やあ、岬」 カードキーを取り出しながらにこにこする。髪が濡れているところを見ると、下のジム に行っていたらしい。 「三杉は見つかった?」 「まだ」 岬が三杉を探索中だという話はチーム内に筒抜けのようだった。岬はそののどかな笑顔 に少しだけ和みそうになるが、不機嫌は簡単には直らない。 「三杉は見なかったけど、さっきロビーで翼に会ったよ。岬に来てほしいって言ってた」 「翼くんが?」 「そう。…お〜い、若島津、今ならジムすいてたよ」 軽く手を振ってから森崎は自室に入って行った。閉まったドアの向こうで会話が微かに 聞こえる。さっきノックした時には応答がなかったのに、どうやら若島津は居留守を決め 込んでいたらしい。賢明なことに。 「どうしてこれだけいて誰も三杉くんを見てないんだろう…」 口の中でぶつぶつ言いながら、それでもエレベーターに向かう。ちなみに森崎と若島津 の部屋の隣は彼と三杉の部屋だった。今回も部屋割りはポジションを考慮しながらアイウ エオ順になっている。決して三杉が職権乱用をした結果ではない。もちろんもしそうだっ たところで誰も異議を唱える者はいなかっただろうが。☆ |
「ほんとに翼くんには負けるよ」
岬はため息混じりに翼の姿が見えなくなるのを見送って、少々気抜けしたままホールに 戻った。 「尾行をバトンタッチっても――」 向きを変えたその場で、ぱたっと足が止まる。 「やあ」 「み、三杉くん…」 吹き抜けの階段の前にネクタイ姿で立っていたのは、まさに三杉その人だった。岬を見 ても別に驚いた様子もなく軽い挨拶をする。 「今の、翼くんだろ、外に駆けてったの。午後からずっとホテルの中にいたから、そろそ ろ禁断症状かな」 「……」 岬は疑わしそうに相手を見上げた。 「まさか、小次郎を練習に行かせたの、君なわけ?」 「僕はそんなことはしてないさ。サブグラウンドが使えるって教えたことは教えたけど ね」 三杉はあくまであっさりとそう答えると、階段の上を示した。 「岬くん、一緒に来てくれないかな」 「何…?」 口調のわりに強引なその誘いに岬はちょっと眉を寄せたが、とりあえずついていく。2 階の廊下を進むと、片側の窓に沿って緑の色が見えた。ガラス越しのすぐ外にである。 「屋上庭園だよ」 張り出し部分の屋上を利用して、そこには見事な庭園が造られていた。剪定された常緑 樹に縁取られた花壇が並び、噴水やそれに導かれた水路まである。ホテルの正面からはち ょうど逆に位置していて、各国チームが宿泊しているメインタワーからも遠い位置に当た るここは、岬にとっては初めて知る場所だった。 「よくこんな所知ってたね。僕たちとは別行動で、ずいぶんホテル内に詳しくなったと か?」 「さあ」 あいまいな相槌を打っただけでろくに話もしないままただ先へ立って歩いていく三杉 に、岬も次第に不審感をつのらせていった。 「なんかどんどんひと気のない方に向かってない? こんな、誰も来ないようなとこに引 っ張ってって、まさか僕を密かに消そうっていうんじゃないよね――」 などと不穏な想像をしながら岬が険悪な空気を漂わせていることに気づいているのかい ないのか、三杉はやがて足を止めた。 「こっちだよ」 会議場スペースのような一角を過ぎて、その先に防火扉があった。三杉は振り返ってそ う岬に声を掛けてからそれを押し開く。そこには薄暗い階段室があって、階下に、そして 階上にも非常階段が続いていた。 「ほら、この窓だよ」 三杉が合図したので、その階段の踊り場部分の窓に岬は近づいた。先に窓に寄った三杉 が自分の隣にスペースを作って岬を招く。岬はいぶかしみつつ窓に顔を寄せた。 「わあ、これって…」 「きれいだろう? たまたま通りすがりに見つけたんだ」 言いながら三杉は手を伸ばしてその滑り出し窓を外に向けて押し開けた。窓枠にからま るほどその外まで迫っていた蔓性の植物には満開の花がいっぱいについていた。ほんのり ピンクをにじませた繊細な形の花が甘い香りを漂わせている。 「ハニーサックル?」 「うん」 岬のつぶやきに三杉は嬉しそうにうなづいた。 ちょうど屋上庭園の端で境目のラティスに這わせたハニーサックルがそのままこちら側 の建物の壁にまで伸びてこの一角を埋めてしまったらしく、窓の外の風景はほぼこの花で 埋めつくされている。 「名前の通りの香りだろう? こんなみごとな群生は初めて見たから、一人で見るのは惜 しくって」 「……」 岬はちらりと一瞬だけ三杉に目をやったが、すぐにまた窓の外に視線を戻した。黙った まま見つめ続ける。 「誰にも知られないような場所で、だからこそこんなに思い切りきれいに咲くのかな」 岬は顔を動かさないままぽつりとつぶやいた。 「どうかな。花は自分の意思で咲く場所を選ぶわけじゃないし――」 三杉の言葉をさえぎったのは岬の手だった。いきなり隣からその頭を抱き寄せる。 「じゃあ、君は自分の意思でこうやって逃げ隠れしてたってわけ」 「…岬くん」 少々乱暴なその抱擁に三杉はくすぐったそうな顔を向けた。すぐ目の前の岬の表情はま だ不機嫌なままだ。 |
「どう考えてもここが『たまたま通りすがり』になるとは思えないけど?」
「…ごめん」 いきなり謝られて、岬はぷいと目をそらした。 「誰に謝ってるの? 翼くんに?」 「いや」 三杉は微かに笑った。 「翼くんにはありがとう、だよ。でも君には謝らないと。ごめん」 「謝ってもらったってね!」 岬はちょっとむきになった。しかし、言葉はそれ以上続かない。岬は肩を落としてぎゅ っと口を結んだ。 「らしくもなく不安になったんだ。君に触れられるたびに、触れられるほどに、どんどん 不安になった」 「……」 はっと岬が顔を上げた。目を合わせた三杉は苦笑を返す。 「自分の気持ちに正直になるのが怖くて――そこから逃げたかった。逃げ切れるわけ、な いのにね」 三杉は半歩下がった。肩に置かれていた岬の手がその動きで離れる。 「岬くん、僕たちは――」 「ダメだよ!」 離れて行こうとするその体を、岬は思い切り引き寄せた。 「それ以上、言っちゃダメ」 ゆっくりと近づいた唇に、三杉は抵抗しなかった。一瞬上がった熱に応じるように、キ スは深くなる。 「――いい? それは絶対言っちゃダメなんだ」 吐息が二つに分かれて岬は目を開く。 「僕はそんな言葉は信じないしあてにもしない。君も、絶対に正直にならないでいいんだ からね」 「僕も…君も?」 三杉は微笑んだ。岬はそれが意味するものに気づいてさっと顔を赤くした。 「僕はいいの! 君のことを言ってるんだから」 「なんだか不公平な気がするけど」 「そんなことないってば」 2人は階段室から屋上庭園に出た。誰もいない庭園は時間が止まったように静まり返っ ている。 2人は庭園側から改めてハニーサックルの群生を見上げた。風に軽く揺れる花たちが放 つ甘い香りはさらに強まっているようだ。 「甘さに、酔いそう」 「うん、待ったかいがあったよ」 数メートルの高さにまで蔓を伸ばして広がるハニーサックルを楽しげに眺めながら三杉 は一人でうなづく。 「待った?」 「そう。見つけた時はまだ満開にはなっていなかったからね。花を待ちながら、決心でき るのを待ってたのかな」 「まったく」 岬はちらりと横目でにらんだ。 「その間、僕をこれだけじらしてたわけだ」 「じらしてたかい? 毎晩ちゃんと一緒にいたのに」 「気づかないわけないじゃない」 岬はそんな言葉ではだまされないと主張する代わりに、三杉の髪をつまんで引っ張って みせた。 「うん。今やっと反省した」 「今頃?」 「ふふ、それにいい加減疲れたし」 「当たり前だろ。何人分働いてたと思ってるの」 「そうだね。僕らしくもなく」 「無茶なとこは君らしいけどね」 噴水の前まで来て、二人はそのへりに腰を下ろした。 「それにさすがに逃げ切れなかったよ」 「翼くんに追いかけられちゃね」 あのバレバレの尾行がいちばん身にしみた、と明かして三杉は笑った。 「らしくなかったのは僕もだけどね。つい必死になったりして」 岬は水盤の水をすくって宙に散らした。それを2人の視線が追う。 光の破片が混ぜ込まれたような青い空。 数日後にはこの空の下で大会が始まる。 「でも僕は嬉しかったよ」 三杉は顔を覗きこむようにしてささやいた。岬はぱっと振り向くと内緒話をするように 同じくささやき返す。 「バカ…!」 「それに関しちゃ僕たちいい勝負じゃないかと思うな」 陽射しはやがて傾いて、庭園はゆっくりと陰を濃くしていくことだろう。 行方不明者はこうして1人から2人に増えてしまった。☆ しかしそれをあえて捜そうとする野暮な者はいない。 ――なにしろ、怖かったしね。 【 END 】
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