MISSING
- KEEPERS ON THE RUN外伝 -
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 不思議な感覚だった。
 天候が変わる時、これに近い感覚になることがある。
 気圧の変化、風向きの変化、雲の流れ。そういったものが、意識しないまま人間の感覚に 何かしらの影響を及ぼすのだろう。
 グスタフ・ヘフナーは、屈めていた体を起こしてゆっくりと周囲を見渡した。
 ここは大学の一角にある厩舎。実習を終えて片付けにかかったばかりだったのだが、ここ にいるのは同じく作業中の実習生ばかりで特にいつもと変った様子はない。
 ヘフナーがそう判断して再び作業にかかろうとしたその時、なじんだ響きが彼の脳裏に伝 わった。
『ヘフナー、久しぶりだな』
「誰だ…?」
 近くの誰にも聞こえない程度の低い声でヘフナーは応じた。こういうコミュニケーション の取り方をする相手は限られているはずだった。
『今からそこへ行く』
「…ワカシマヅか?」
 聞き覚えのある声、という言い方は少し間違っているかもしれない。聴覚は使っていない のだから。が、これまでにも何度となく「会話」した記憶の中で、その聞き分けは間違えよ うがない。
「どういうことだ」
 しかし、とは言ってもそれはありえないことだった。
 いわゆるテレパシーと呼ばれる通信手段を、彼らは自分たち単独では使えないはずであ る。その能力を持つ若林が彼らの「会話」に参加している時に限られるのだ。
 ヘフナーは手に持っていたリーキを壁に立てかけておいて厩舎を出た。そしてすぐに足を 止める。
 顔を向けた先に、近づいてくる姿があった。沈みゆこうとしている夕陽を背にその輪郭を にじませながら。
「よう」
 立ち止まって、ヘフナーにそう挨拶をする。
 上背のあるやや細身の体格に、どこかに殺気を隠しつつもひたすら静かなたたずまい。
 そう、それは半年ぶりに会う若島津だった。
「連絡は届いていたようだな」
「連絡だと?」
 逆光から抜けたせいで表情がようやくはっきりと見えた。何か意味ありげな笑みが――同 じ無表情同士としてかろうじてわかる程度に――浮かんでいる。
「俺が来ることは聞いていたんだな、その顔は。驚く代わりにまごついてるところを見る と」
 そう、ヘフナーは当惑していた。若島津のその言い方では、あの「声」は自分のものでは ないという意味になりはしないか。
「――さっきのアレは、おまえじゃないってのか」
「いや、俺だ」
 あっさりと若島津は認めた。
「聞こえたのならよかった。初めて実際に試してみたからな」
 若島津はスポーツバッグを足元に下ろし、物珍しそうに厩舎を覗き込んだ。馬たちは今外 で運動中なのでここには1頭もいなかったが、実習生が数人、見慣れない訪問者に振り返っ ている。
「おい、どういうことなんだ」
 ヘフナーがその背後から問いかけた。
「テレパシーじゃないのか、あれは」
「あいにく俺にもよくわからん。まだ実験段階でな。それより――」
 向き直った若島津は少し間を置いた。
「少しの間かくまってくれ。おまえの家に」
 会った早々から、若島津は強引だった。










 ライン川沿いの古都、ケルン。ヘフナーはこの街に住んでまもなく10年になる。生まれ てすぐに一度離れたものの後に再び戻って来て、以来ずっと一人暮らしをしながら学業に励 んでいる。
「言っておくが、ここに人を泊めたことはないんだぞ」
「ほう」
 旧市街の一角にある古いアパートがヘフナーの住まいだった。そこに通されて、若島津は ぐるりと部屋を見回す。
 最小限の家具と、簡単なキッチン。いわゆるワンルームだが、かなりゆったりとした広さ がある。
「しかも、かくまうってのはいい響きとは思えんが」
 不審そうな態度のままヘフナーは口を開いた。
「まさか家出か」
「違う。就職活動だ」
 日本とヨーロッパでは学生のカレンダーにズレがある。春に新学年が始まる日本の学校制 度は、ヨーロッパのサッカーシーズンとは一致せず、どうしても契約等の時期が不自然に半 端になる。
「どこかのクラブからオファーを受けたのか? それともテスト…」
 だとしてもいきなりこちらに乗り込んで来るというのは尋常ではない。そう伝えようとす るヘフナーを振り返って若島津は平然と答えた。
「俺の就職じゃない。日向さんのだ」 
「………?」
 日本代表のストライカー日向小次郎は、実はもう何年も前から複数のクラブチームから声 を掛けられては断りまた次のオファーが届く、ということを繰り返している。特待生として 彼を引き受けてきた東邦学園への義理立てと言うか、ある種の義務感で――東邦自身が逆に 海外行きを勧めているにもかかわらず――年季奉公を最後まで勤め上げると心に決めている ようなのだ。それこそ周囲がじれったさに歯をすり減らすくらいに。
 しかしそんな彼もいよいよ卒業の年を迎える。もう義理立ての必要もなくなるわけで、こ こに来て各国リーグからクラブのスカウトや代理人たちの動きが一気にヒートアップしてい る。
「俺が口を出すことじゃないんだが、ま、手を出すのはいいかと思ってな」
「…何をする気だ」
 妙な殺気をその言葉に感じてヘフナーは反射的に身構える。しかし手を出すというのが空 手技でないとすると、残るのは彼らの特殊能力が関わることになる。ヘフナーははたと気が ついた。
「夢を見たのか」
 質問ではなく確認になる。若島津は案の定にやりとした。
「わざわざドイツまで来る羽目になるような夢をな」
 帰り道で買い込んできた食料類をテーブルに並べて、ヘフナーは若島津を見た。一応食事 を始めるつもりらしい。
「さっき言っていた『実験』てのもそいつと関係がありそうだな」
「大いにある」
 若島津は包みをがさがさと開いてテイクアウトの品を皿に乗せる。見慣れない食べ物でも 気にしない様子で、その中からでこぼこした巨大餃子のような形のパイを手に取った。
「おまえが受け取った連絡は、過去の俺から届けたものなんだ。逆に言えば、俺は未来のお まえにメッセージを送ったことになる」
「…………」
 たっぷり10秒以上の沈黙を置いてからヘフナーは口を開いた。
「よし、詳しく話せ」
 コーヒーを入れ直しながらの説明になった。
 予知夢と言えば聞こえはいいが、若島津の場合自分で何を予知したいという選択ができる わけではない。唐突に現われる上に抽象的であいまいで、いつどこで起こることなのかを特 定することもできない厄介なしろものだった。
「以前、森崎の意識がぶっとんでしまってしばらく戻らなかったことがあっただろう」
「ああ、シュナイダーが八百長疑惑に追い回された時だな」
 ヘフナーはもちろんしっかりと覚えている。ものすごく昔のような気がするが彼らが18 才の時、つまりほんの2、3年前のことなのだった。
「あの時森崎が入り込んだのは無意識層ってやつだと若林は言ってた。個人の垣根を越え た、時間も距離も関係なく繋がっている領域――ってな」
「そうだな。現代でモリサキが見ている夢と、あのじいさんが子供の時に見た夢とがくっつ いて、そこで二人で顔を合わせてたくらいだ」
「俺の夢も、それと同じじゃないかと思ったんだ」
 そんなヘフナーに若島津は視線を寄越した。さっきの巨大なパイはその手の中で持て余し 気味である。ミートパイなのかはたまた野菜パイなのか、どちらにしろ具に味がほとんどな いのと、大変に歯ごたえのあるパイ皮が難点のようだ。
 コーヒーで口直しをして若島津は言葉を続ける。




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