時間にするとそんなに長い時間ではなかったのが不思議だった。ジノは腕時計に目を落と
してそれを確認する。
「――まだぼーっとしてるわ。くらくらするわね」
ザラ・マイヤーは椅子に座り直すと、向かいの父親を見た。彼もまた心ここにあらずとい
う表情だ。
「でもお父様、どうしてあの曲をリクエストなさったの? 私でも知らないような曲をよく
ご存知だったわね」
「いや、それが…。自分でもよくわからないんだ。あの時ヘフナーさんと話しているうちに
急に頭に浮かんできて、ひどく必死になってしまったんだよ。実際、聴いたことがあったの
かどうもあやふやなんだが」
マイヤー氏はぼんやりした顔のまま席を立つ。そしてそこにいたジノに目を留めた。
「ああ、君か」
ようやく、なぜ自分がここにいたのかマイヤー氏は思い出したらしい。
「望み通り君との契約は白紙ということにさせてもらうよ。うちのチームではとても引き受
けかねることがよく身に染みた。オプションとしてヒューガの件からも手を引くから、もう
私の前に顔を見せないでくれ。じゃ、失礼する」
一気にそれだけ言ってふらふらと去ろうとするマイヤー氏にジノは屈託なく呼びかける。
「じゃあ、ファットーリさんとのことも含めて僕からチームに報告しておきますね。彼の副
業とか、そのパートナーのこととか」
笑顔で見送っておいて、ジノは出口に背を向けた。見事な演奏をしたピアニストを祝福し
ようとその姿を探そうとした、その時。
彼の背後でドカンと大きな音がした。ドアが勢いよく開いて、そこから人影が転がり込ん
だのだ。
「えっ、ギュンター!?」
飛び込んだ勢いのまま床に膝をついたその姿は、まさに行方不明だったギュンター・ヘフ
ナーだった。この季節にレザーのコートを着て、しかもそれがびっしょり濡れているではな
いか。ジノは急いで駆け寄っていったが、ギュンターはそれにも気づかずに、噛みつきそう
な顔でじっとステージのほうを睨んで動かない。
「今の――今の歌は誰なんだ!」
「歌じゃなく、ピアノですよ。グスタフが弾いてたんです」
「そんなはずはない…」
ギュンターは低くそうつぶやくとようやく立ち上がった。そうしてゆっくりと前に進んで
いく。
「おやっ、ギュンター、いつ来たんだ?」
びっくり顔のマスターにも軽くうなづいただけで追い越し、そしてピアノの前まで来る。
その椅子は空になっていた。
「おい、息子!」
「…なんだ、いきなり」
ピアノを睨んだ後、ギュンターはキッと顔を上げた。ヘフナーのほうは既にピアノを離れ
てカウンターにいた。演奏が終わってすぐにここでビールを飲んでいたのだ。
ピアノの前とカウンターの前、その数メートルの微妙な間を挟んで二人の会話は始まっ
た。
「なんだっておまえが――俺が必死にあちこち捜し回ってる歌をあっさり歌ってんだ!」
「歌ってなんかいない。ピアノを指1本でいたずら弾きしてただけだ」
睨み付ける父親と、そっぽを向いたままの息子。世間にもよくあるシチュエーションと言
えなくもないが、見た目ほとんど年格好の違わないこの二人ではどうすればいいのだろう。
「あれはな、曲しか残っていなかったんだ。歌詞は残されていなくて、誰も覚えてもいなく
て。民謡をモチーフにしたらしいってことだけ手掛かりに、昔あいつと旅をしたドナウ沿い
にずっと捜してたんだぞ。一体どうやって知ったんだ」
「どこかで、偶然に」
「くそっ」
無表情同士の睨み合いは迫力があるのかないのか、とにかく誰も口をはさめる者はいな
い。
「…ねえ、さっきの曲、歌なんて歌ってましたっけ?」
遠巻きに、店のスタッフ同士でひそひそと話し合っている。
「俺は途中でちらっと聞こえたような…」
「えー、嘘だよ。ピアノだけだったろ?」
なぜだかわからないが、その場にいた者たちの間でも話が一致しない。
「わしは聞いた。全部、しっかりとな」
一人でそうつぶやいていたマスターが近づいて、親子の間に割って入った。
「ギュンター、まあいいじゃないか。グスタフもそう言っておるんだし」
「しかし――」
まだ納得いかないふうのギュンターにジノが背後から声をかける。
「あれは友人の苦境を救うためにがんばってやってくれたんですよ。人前で演奏なんてと抵
抗してましたが」
「俺だって――俺だってがんばったんだぞ。今日に間に合わせるためにギリギリまで粘っ
て、あちこちの土地で聞き込みもして」
「今日に…」
さっさとその場から離れようとしていたヘフナーが店の奥へのドアを開きながら振り向い
た。
「忘れたのか。今日はおまえの誕生日だぞ。あれを誕生日プレゼントにするつもりだったん
だ」
「おやまあ」
ジノが目を見開く。ヘフナーは何も言わずにドアの向こうに消えていた。
マスターがギュンターの腕をぽんぽんと叩いた。気づいて見下ろした彼に、ビールのジョ
ッキを渡す。
「ということは、彼女の命日でもあるんだな」
「…そうなるな」
ギュンターは豪快にビールをあおった。髪がぱっと水滴を散らす。マスターは不思議そう
にそれを見上げた。
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