MISSING
- KEEPERS ON THE RUN外伝 -
1 2 3 4 5 6 7






「ビジネスの話を持ち出す気はなかったのです。無礼を許していただきたい。そちらはまた 改めて出直しますので、一ファンのお願いだけ聞いていただけませんか」
 歩み去ろうとしていたヘフナーが、数歩先でちらりと振り返った。
「あなたのあの歌を、聴いてみたいんです、もう一度」
 マイヤー氏の言葉にヘフナーは眉を寄せる。娘のザラ・マイヤーもなぜか驚いた様子で父 親の顔を見つめていた。
「私は若い頃に――もう20年ほども昔ですが、この店で聴いたことがあるんです。あなた がピアノを弾きながら歌ってらしたあのメロディが、その後も耳から離れず忘れられません でした。でもその曲はこれまでにリリースされた中にはなく、ライブでも発表なさった様子 がない。何とかしてもう一度と思い続けてきました」
 ヘフナーはその熱意のこもった訴えを困ったように聞いていた。
「いったい、どういう曲です」
「タイトルなどはわかりません。歌詞は民謡のようでした。テンポがどんどん速くなる、悲 しげな歌です」
 ヘフナーの表情が動いた。その言葉が思い出させたのだ、いつか、この店で聴いた、この ピアノで奏でられた曲を。
「それはチャールダーシュですな」
「えっ?」
 ヘフナーが脇に目をやると、老オーナーがにこにこと笑顔でそこに近づいて来た。
「東ヨーロッパの伝統的な舞曲で、もともとはハンガリーあたりのロマニー族が伝えていた 音楽です。この店を始めた当時にけっこう流行していてこの店の名前にもつけたと聞いてま すよ」
 ロマニーとはかつてジプシーと呼ばれていた人々のことである。
「はあ…」
 それにしてもこのオーナーよりさらに前の代となると、それはまた相当昔の話だと思われ る。
 ヘフナーはじっとそのオーナーを見つめてから無表情のまま一同にくるりと背を向けた。 「――俺に、心当たりはないな」
「あのっ、ヘフナーさん!」
 呼び止めるマイヤー親子の声を残して、若島津も急いで追う。
「おい、どうした」
「いや、あれ以上付き合ってると切れそうだったんでな」
 まもなくここに来るはずのジノのことを考えてもあまり関わっていてはいけない相手では ある。二人はまたステージ横のピアノの陰に戻って、そっとマイヤー氏のテーブルのほうに 目をやった。
「ドナウ川と言えば…」
 若島津が口を開く。
「さっき出てたハンガリーもその流域になるな」
 その言葉にヘフナーがぎくりと反応した。二人の視線が合う。
「まさか――」
「心当たりでもあるのか、今の話と」
 知らないと答えてはいたが、ヘフナー自身の反応がその言葉を裏切っていたのを若島津は 見ていた。
「ギュンターがその曲を探しにドナウ川へ行った…?」
 つぶやきかけた若島津だがそこで首を傾げる。
「しかしギュンターが自分の持ち歌を探すというのも変な話だな」
「――いや」
 ヘフナーはどこか苦しげに声を出した。
「もしあの曲のことなら、やつの持ち歌じゃない」
「なんだって?」
「あれは…俺の母親が歌っていた歌のはずだ」
 歌を探すと言い残して姿を消したギュンター。その行動がここに繋がるとしたら…。
 ヘフナーの視線が、どこか遠いところへと向けられた。












「ヘルナンデス君、ここだ。入ってくれたまえ」
 タクシーが横付けされ、二人組の客が到着した。
「はい。でもライブハウスとは珍しい面接場所ですね」
「私もそう思うよ。でもマイヤーさんは娘さんとたびたび来ているそうでね。まあ地元の人 の指定だから間違いはないさ。この時間帯がゆっくりできて一番いいそうだ」
 ファットーリ氏は上機嫌だった。マイヤー氏のような各国リーグでの協力者と手を組んで 情報操作をしては移籍市場で荒稼ぎをしてきた彼だったが、このオフにはいつも以上におい しい話が続いたからだ。
 ヨーロッパデビューの日本人ストライカーには一緒にたっぷりとうまみが付いてくるだろ うし、最近世代交代が求められて品薄気味のキーパー部門でもリストに載せられる有望な若 手が飛び込んできた。
 ファットーリ氏は得意顔で、店内で待っていたマイヤー氏とその娘の関連会社社長と握手 を交わす。そうしてジノを引き合わせると満足げにタクシーに戻っていった。あくまでも、 一緒にいるところは目撃されたくないということだ。
「それにしても君、ドイツ語が堪能なんだね。驚いたよ。これならブンデスリーガでも問題 なくやっていける」
「ミラノはドイツ語圏に近いですし、実は姉が結婚してドイツに住んでいてたびたび訪ねて 来ているんですよ」
 キーパーとしての実績はもちろん、ユース世代のイタリア代表のキャプテン格として一目 置かれている…といったデータにもマイヤー氏は非常に満足したようだった。ファットーリ 氏が置いていった資料に目を通しながらうなづいている。一つ、カードがその割にやや多い のが気に掛かるが、まあ若い選手だからまだこれから落ち着いてくれるだろう。
 マイヤー氏ばかりでなく娘のほうも積極的に話に加わってきた。
「サッカー以外の活動にも期待できるわね。ルックスもいいし、クールな知性派ってイメー ジが受けると思うわ。スポンサーが放っておかないでしょう」
 どうやら親子で分業しているようだ。
「これまでマネジメントの契約はなさってないようだけど、移籍を機にサッカー以外の分も きちんと対応しないとね。わたくしの会社でも若い世代の選手をたくさんお預かりして実績 がありますから、よければ検討してみてくださいな」
 それもどうやら父親の人脈が大きく物を言うタイプの実績と思われたが、ジノは素直に関 係書類の封筒を受け取っておいた。何かと証拠物件になりそうなので。
 続いてマイヤー氏が本題に入った。
「さて、契約条件や年棒については今のファットーリさんが代理人として両クラブの交渉に 当たってくれるわけだが、君のほうで何か希望などあるかな。特にないようなら我々で―― え?」
「ありますよ」
 こういう若い選手ほど法律上の細かな規約などは煩わしいばかりで関わろうとはせず、せ いぜい自分の手元に来る金をなるべくたくさん欲しい…程度の希望しか出さないものだ。彼 はそう考えていた。が、この選手はその穏やかで礼儀正しいその振る舞いとは裏腹に、きっ ぱりとある条件を出してきたのだ。
「契約交渉権は僕自身で100%持たせていただきます。複数年契約の場合の違約金マージ ンは全部移籍先に回すことと、同じく拒否権も僕個人で持つこと。これが条件ですね」
「え……」
 マイヤー氏は口を開きかけたまま停止状態になった。隣で娘のザラも完全に固まってい る。ジノは相手の返事がないので勝手に話を続けることにした。
「ああ、もう一つありました。日本から今度来るヒューガですが、本人の希望通りACミラ ンでプレイできるように今進めている迂回工作は白紙に戻してくださいね」
 その名前を聞いて、マイヤー氏の肩がぴくりと動く。
「な、なぜそれを…」
「移籍金のつり上げや転売目的の架空契約はFIFAも最近厳しくなってきましたからね え」
「――何を言い出すんだ! 第一、そんな条件があるものか、飲めるわけがないだろう!」  いきなり爆発したように声を荒げたマイヤー氏だが、その声が震えているように思うのは 気のせいだろうか。
「しかも架空契約だなんて言いがかりにも程があるわ!」
 二人がかりで反撃されてもジノの落ち着いた態度は変わらなかった。が、その背後に大き な男の影が2つ立つ。マイヤー親子の連れているボディーガードだった。
「話が込み入ってきたから、この人を車に連れて行ってくれ」
 マイヤー氏の言葉に、男たちは無言でジノの肩に手を掛けた。
「僕はまだ帰るつもりはないんですけど」
「おい!」
 マイヤー氏に丁重にそう断りながら、ジノは男たちの手を払いのけた。むっとしたように 羽交い締めにしようとした一人をひょいとよけて、ジノはちらりと背後に目をやる。その壁 際には予備の椅子が置いてあるのだが、その椅子のうちの2脚がすっと滑るように動いた。 「う…わっ!?」
 ボディーガードたちは背後から椅子に襲われた形になった。不意討ちで強力ヒザかっくん を食らい、どしん、と地響きを立てて強制着席する。
 一瞬何が起きたのかわからない当人たちとその雇い主たちの4人は、互いにテーブル越し にきちんと向かい合ってただ呆然とした。
 代わりに立ち上がったジノがテーブル脇からその4名様ご一行ににっこりと微笑みかけ る。
「ではピアノの演奏を交換条件に、というのはいかがでしょうか。僕の契約はパーでいいで すから、ヒューガの一件だけはお考え直しください」
「馬鹿なことを! そんな一方的な条件を歌一曲と引き換えになど……」
「など?」
 そこに流れてきたピアノの音が、マイヤー氏を黙り込ませた。
 静かで緩やかなそのメロディーは、時々不安定に揺れてまるで大河の流れのように連なっ ていく。
「これは…!」
 すぐにマイヤー氏の顔色が変わった。
 ジノさえも目を見張ってその演奏者を見つめる。
「あれはグスタフ――? いや、それとも…」
 古いライブハウスの古いピアノから響く音色が空間を満たしていく。その場の全員を共鳴 に巻き込みながら。
「この曲だ」
 ジノの背後で老人のかすれた声がした。
 振り向くと、オーナーが自分が頭に巻いていたバンダナをゆっくりと外して顔をごしごし とこすっている。
 壁の間接照明がピアノを真上から照らしていたが、それが時おりふわりと揺れて、演奏者 の背に陰を動かした。
 決して流麗とは言えないたどたどしいくらいのメロディが次第にテンポを速めていく。転 調と変拍子を織り交ぜながら。
 なぜか胸が騒ぐような、強く引きつけられずにはいられないような、そんな感情が満ちて くるのをジノは感じていた。
「これが、そうなんですか?」
「…ああ」
 何を聞いているのかも定かでない問いに、マスターは大きく息を吐いてから深くうなづい た。




 << BACK | TOP | NEXT >>