「ビジネスの話を持ち出す気はなかったのです。無礼を許していただきたい。そちらはまた
改めて出直しますので、一ファンのお願いだけ聞いていただけませんか」
歩み去ろうとしていたヘフナーが、数歩先でちらりと振り返った。
「あなたのあの歌を、聴いてみたいんです、もう一度」
マイヤー氏の言葉にヘフナーは眉を寄せる。娘のザラ・マイヤーもなぜか驚いた様子で父
親の顔を見つめていた。
「私は若い頃に――もう20年ほども昔ですが、この店で聴いたことがあるんです。あなた
がピアノを弾きながら歌ってらしたあのメロディが、その後も耳から離れず忘れられません
でした。でもその曲はこれまでにリリースされた中にはなく、ライブでも発表なさった様子
がない。何とかしてもう一度と思い続けてきました」
ヘフナーはその熱意のこもった訴えを困ったように聞いていた。
「いったい、どういう曲です」
「タイトルなどはわかりません。歌詞は民謡のようでした。テンポがどんどん速くなる、悲
しげな歌です」
ヘフナーの表情が動いた。その言葉が思い出させたのだ、いつか、この店で聴いた、この
ピアノで奏でられた曲を。
「それはチャールダーシュですな」
「えっ?」
ヘフナーが脇に目をやると、老オーナーがにこにこと笑顔でそこに近づいて来た。
「東ヨーロッパの伝統的な舞曲で、もともとはハンガリーあたりのロマニー族が伝えていた
音楽です。この店を始めた当時にけっこう流行していてこの店の名前にもつけたと聞いてま
すよ」
ロマニーとはかつてジプシーと呼ばれていた人々のことである。
「はあ…」
それにしてもこのオーナーよりさらに前の代となると、それはまた相当昔の話だと思われ
る。
ヘフナーはじっとそのオーナーを見つめてから無表情のまま一同にくるりと背を向けた。
「――俺に、心当たりはないな」
「あのっ、ヘフナーさん!」
呼び止めるマイヤー親子の声を残して、若島津も急いで追う。
「おい、どうした」
「いや、あれ以上付き合ってると切れそうだったんでな」
まもなくここに来るはずのジノのことを考えてもあまり関わっていてはいけない相手では
ある。二人はまたステージ横のピアノの陰に戻って、そっとマイヤー氏のテーブルのほうに
目をやった。
「ドナウ川と言えば…」
若島津が口を開く。
「さっき出てたハンガリーもその流域になるな」
その言葉にヘフナーがぎくりと反応した。二人の視線が合う。
「まさか――」
「心当たりでもあるのか、今の話と」
知らないと答えてはいたが、ヘフナー自身の反応がその言葉を裏切っていたのを若島津は
見ていた。
「ギュンターがその曲を探しにドナウ川へ行った…?」
つぶやきかけた若島津だがそこで首を傾げる。
「しかしギュンターが自分の持ち歌を探すというのも変な話だな」
「――いや」
ヘフナーはどこか苦しげに声を出した。
「もしあの曲のことなら、やつの持ち歌じゃない」
「なんだって?」
「あれは…俺の母親が歌っていた歌のはずだ」
歌を探すと言い残して姿を消したギュンター。その行動がここに繋がるとしたら…。
ヘフナーの視線が、どこか遠いところへと向けられた。
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