「さて始めるか。――って、どうやるんだ」
「知らんな。まあ見当でやってみるか」
地図の上にピックを起き、指先でそれに触れる。意識を集中させるヘフナーの向かいで若
島津は目を閉じた。
「あっ!」
思わず声を上げたのはそれを見守っていたジノだ。軽い音と共に、ピックが弾け飛んで床
に落ちたのだ。
「ダメだったか、やっぱり」
緊張を解いたヘフナーが、残念そうにピックを拾い上げる。若島津もゆっくりと目を開い
て、一人で地図を凝視した。
「いや、今のでいい」
地図を見つめる視線が国境地帯をぐるっと追って周るのを二人は不思議そうに見る。
「彼はこの地図の中に――つまりドイツにいなかった。そういうことだと思う。少なくとも
この3日間は」
「何か見えたのか?」
若島津は今自分が見た幻の光景を思い出そうと指を組んだ。夢の中に見えた、霧に包まれ
た暗い流れ。
「ドナウ――」
その光景の中に、岸に立つ表示板があった。その文字を若島津は読み上げる。
「ドナウ川か? ギュンターはドナウのどこにいるんだ」
「流域でドイツ圏内でないところって言っても、長いよ」
ジノが言う通り、河口に当たる黒海から遡って行ってもウクライナ、モルドバ、ブルガリ
ア、ルーマニア、セルビア、クロアチア、ハンガリー、スロバキア、オーストリア…と通っ
て最後にドイツに至る、東欧を大周遊する大河である。
「そこまではわからない。一瞬だけ見えた風景だ、特定する手掛かりが少なすぎる」
残念そうに若島津は首を振った。馴染のある場所ならともかく、未知の土地ではそこから
読み取れるものは限られる。
「でも、『歌を探す』っていうのとドナウ川がどうつながるんだろうね」
それが最大の謎だった。
■
ジノの面接は6時から、と連絡があった。
ファットーリ氏は、日向の売り込み先である地元ケルンのチームにジノもセット売りで引
き受けてもらおうと皮算用をしているようだ。
「いくらで買ってもらえるのかな、僕」
「おまえ売ったことはないのか、そう言えば」
「こら…大きな声で話すことか」
昼下がりの遊歩道を3人仲良く歩いているのはともかく、話題があまりよろしくない。
「うん。だってずっと地元だったからね」
プロになって初めての移籍――偽装だが――となればジノにとっても将来へのリハーサル
になるかもしれない。
「そう言えばおまえはどうなんだ、ワカシマヅ。どこのチームに行くつもりだ」
「俺はもう入団済みだ。Jリーグにな。大学と掛け持ちで」
「ほう、それは知らなかった」
「勝手に入れられちまったからしかたがない」
まあそこは原作者都合ということで。ちなみにそのチームはその後、吸収合併によって消
えてしまったのだったが。
「こっちのリーグに来る気はないのか、ヒューガみたいに」
「さあ、自分のことにはあまり興味がない」
そういう男である。
遊歩道の突き当たりになる広場で彼らは足を止めた。ジノが提案する。
「昨日のコーヒーハウスでは待ち合わせだけだから僕一人で大丈夫だ。二人で先に『チャー
ルダーシュ』に行ってていいよ」
「そうか?」
若島津の予知ではその待ち合わせ段階では特に何も起きず、本題はその先に移動してか
ら、のはずだった。
彼らは午前中いっぱい使ってギュンターの消息を追うべくドナウ川をキーワードに各所を
調べ回ったのだったが、これといった決め手はとうとう見つけられなかった。
「こっちの続きは今夜の決着をつけてからだね」
こうしてジノは一人で中央駅方面に向かい、ヘフナーと若島津は再び『チャールダーシ
ュ』を目指した。
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